ここのところ、「終わり」を強く意識するようになった。
具体的には、絶対的な真理である「生物学的な死」を、私もいつか迎えることが、妙なリアリティを持ってきた。
不惑も近づいた年齢のせいもあるのだろうか。
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スティーブ・ジョブズはかの有名なスタンフォード大学の卒業生に向けたスピーチの中で、「3つの重要なこと」を述べた。
彼が最後の3つめに話したのが、「死について」というテーマだった。
曰く、彼は17歳の時に『毎日をそれが人生最後の日だと思って生きれば、その通りになる』という言葉に感銘を受け、それから33年間、毎朝鏡に映る彼自身に『もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとすることをするだろうか』と問い続けている、と。
曰く、自分がまもなく死ぬという認識が、重大な決断を下すときに一番役に立つ、なぜなら、永遠の希望やプライド、失敗する不安…これらのほとんどすべて、死の前には何の意味もなさなくなるからだ、と。
弱冠17歳から、「死」というものが投げかける問いに向き合ってきたジョブズ。
もちろん、それが早いも遅いもない。
ただ、「気付く前」と「気付いた後」がある、というだけの話だ。
そして、気付くまでの時間を後悔して嘆いている間にも、私の時間は死に向かって滔々と流れる。
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ジョブズの言葉に限らず、こうした話や言葉は、見渡せばどこにでもあふれている。
大病を患った人の体験談、事故や天災に遭った人の言葉、 大切な人を亡くした経験…
あるいは、私の息子の大好きな恐竜が生きていた時代の1億数千万年前という悠久の時の流れを思えば、平均寿命が延びて人生100年時代だと言われようが、人の一生などほんの刹那の瞬きにしか過ぎないとも言える。
けれども、それらはすべて「他人」のことでしかない。
もし、そうした体験談や言葉から、「死」や「終わり」について自覚することがあったら、それは本人にとって「そういうタイミングだった」というだけのことのように感じる。
どこまでも、「死」とは徹頭徹尾、私的であり、個人的なものであり、パーソナルなものの思える。
それは空虚な妄想などではなく、肚の底にずしりと沈む身体感覚のようだ。
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その身体感覚ともいえる「終わり」を軸に据えると、いかに思い煩う必要のないことの多いことか。
それが自分に向いているのかどうか、
自分の役目や使命はなにか、
理想の自分になれるかどうか、
願いや夢が叶うかどうか…
どれもこれも、いまの生が無限に続くことを前提とした問いではないか。
もしも「終わり」から考えるとしたら、
向いているかどうか考える前に「やる」、
使命や役目など「終わり」が来てから分かる、
なれるとしたら、「いま」何をするか、
叶うとしたら、「今日」をどんな一日にするか、
しかないように思う。
そしてそれは、特別なことでも何でもない。
ベクトルの向きを、
「いま」→「終わり」
に向けるか、
「いま」←「終わり」
に向けるかの違いだけだ。
そして、「終わり」がいつ訪れるのかは、誰にも分からない。
30年後かもしれないし、10年後かもしれないし、1か月後かもしれないし、はたまた10分後かもしれない。
たかだか数分、呼吸が止まっただけで「終わり」は訪れる。
そう考えると、究極的には「いま」も「終わり」も同じではないか。
「←」の時間など、あってなきようなものなのだから。
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「終わり」から、始めよう。
いつか訪れる最期の日になっても、それをやるだろうか?
私は、書き続けたい。
自分の適性や役目が何であれ、向いていようが向いていまいが、結果がどうあれ、書き続けたい。