「ありがとう」の反対は、「当たり前」。
「ある」ことに感謝できるようになるためには、「ない」を経験する必要がある。
「ない」という辛い時間を経たからこそ、感じられる有難みもある。
それはそうなのだが、「ない」ということは本当に「ない」のだろうか?
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さて、断酒も8ヵ月を過ぎた。
なかなか明けない梅雨と不順な天候のせいか、夏の生ビールの誘惑もさほどではなく、順調に続いている。
そんな日々だが、お酒が「ない」ことで、お酒が「ある」ことをなつかしく幸せなものだな、と感じる。
それこそ、毎日のように飲んでいた時は、飲むのが当たり前になっていて、お酒を飲めることに感謝しようなどとは思わなかった。
よくも悪くも、人間は慣れるもので、お酒に限らず「いまここにある」奇跡というのは忘れられやすい。
朝、布団で目を覚ますことができること。
当たり前のように呼吸ができること。
ベッドから起きて、トイレまで歩けること。
暖かいコーヒーとパンを食べることができること。
誰かに言葉を伝えられること。
働く場所があるということ。
当たり前のようにしているこれらの行為も、少し考えてみれば違う誰かにとってみれば全く当たり前ではない。
布団もない中でまんじりともせず迎える朝や、
喘息に苦しむ人や、
足を怪我して歩けなかったり、
食べるものがなかったり、
伝える誰かを失くしたり、
働く場所がなくなったり、
そんな経験をした人にとっては、それらはまったく当たり前ではなくて、感謝すべきものに変わる。
何かが「ある」ことに感謝できるようになるためには、「ない」を経験しなくてはならないのかもしれない。
あんなしんどいこと、こんなつらいこと、悲しいこと…それが起こったからこそ、「ある」ことに感謝できるようになることは多い。
「ある」は、「ない」から始まる。
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…と、ここまでは、よく言われる話ではある。
彼女と別れた後で、どれだけ愛されていたのか思い知ったり、
病を得たことで、健康の大切さを痛感したり、
お金が無くて苦労したことで、お金のありがたさを感じたり、
仕事を失ったことで、働く喜びを知ったり、
人はいろんな「ない」経験を通して、「ある」ことに気づき、感謝できるようになる。
その上で。
「ない」とは、ほんとうに「ない」のだろうか。
断酒をしていると、ときどきそんなことを考えてしまう。
これだけの期間、お酒を断っておいて、また飲めるようになったら、それはそれでものすごく美味しいお酒が飲めると思う。
そして、お酒を飲める喜びとともに、お酒に感謝するようになるのだろう。
では、断酒しているいまが「ない」状態で、我慢して苦しくて、感謝などできない状態かといえば、そうでもない。
断酒は断酒で楽しいし、喜びもある。
逆説的で、少し説明が難しい部分なのだが、断酒をしていることが、「ない」わけではないように感じる。
さて、これはお酒、断酒だけの話だろうか。
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愛も、お金も、健康も、いろんなものに対して、
人は、「ない」ことを嫌い、「ある」ことを求める。
されど、ほんとうに「ない」のだろうか。
ほんとうのところ、「ある」も「ない」も同じ一つの事象の裏返しなのかもしれない。
どちらにしても、たいした意味はない。
ただ、確かに「ある」と言えるもの。
どんなに私が「ない」と嘆き、悲しみ、やさぐれ、中指立てようとも、その荒波の底で静かに目を閉じる、「わたし」。
その存在は、たしかに「ある」。
それを、「愛」と呼ぼうが、「神さま」と呼ぼうが、「悟り」と呼ぼうが、「ハイヤーセルフ」と呼ぼうが、同じことなのかもしれない。
その存在は、たしかに、「ある」。