大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

断酒日記 【260日目】 ~「ある」のか「ない」のか

「ありがとう」の反対は、「当たり前」。

「ある」ことに感謝できるようになるためには、「ない」を経験する必要がある。

「ない」という辛い時間を経たからこそ、感じられる有難みもある。

それはそうなのだが、「ない」ということは本当に「ない」のだろうか?

さて、断酒も8ヵ月を過ぎた。

なかなか明けない梅雨と不順な天候のせいか、夏の生ビールの誘惑もさほどではなく、順調に続いている。

そんな日々だが、お酒が「ない」ことで、お酒が「ある」ことをなつかしく幸せなものだな、と感じる。

それこそ、毎日のように飲んでいた時は、飲むのが当たり前になっていて、お酒を飲めることに感謝しようなどとは思わなかった。

よくも悪くも、人間は慣れるもので、お酒に限らず「いまここにある」奇跡というのは忘れられやすい。

朝、布団で目を覚ますことができること。

当たり前のように呼吸ができること。

ベッドから起きて、トイレまで歩けること。

暖かいコーヒーとパンを食べることができること。

誰かに言葉を伝えられること。

働く場所があるということ。

当たり前のようにしているこれらの行為も、少し考えてみれば違う誰かにとってみれば全く当たり前ではない。

布団もない中でまんじりともせず迎える朝や、

喘息に苦しむ人や、

足を怪我して歩けなかったり、

食べるものがなかったり、

伝える誰かを失くしたり、

働く場所がなくなったり、

そんな経験をした人にとっては、それらはまったく当たり前ではなくて、感謝すべきものに変わる。

何かが「ある」ことに感謝できるようになるためには、「ない」を経験しなくてはならないのかもしれない。

あんなしんどいこと、こんなつらいこと、悲しいこと…それが起こったからこそ、「ある」ことに感謝できるようになることは多い。

「ある」は、「ない」から始まる。

…と、ここまでは、よく言われる話ではある。

彼女と別れた後で、どれだけ愛されていたのか思い知ったり、

病を得たことで、健康の大切さを痛感したり、

お金が無くて苦労したことで、お金のありがたさを感じたり、

仕事を失ったことで、働く喜びを知ったり、

人はいろんな「ない」経験を通して、「ある」ことに気づき、感謝できるようになる。

その上で。

「ない」とは、ほんとうに「ない」のだろうか。

断酒をしていると、ときどきそんなことを考えてしまう。

これだけの期間、お酒を断っておいて、また飲めるようになったら、それはそれでものすごく美味しいお酒が飲めると思う。

そして、お酒を飲める喜びとともに、お酒に感謝するようになるのだろう。

では、断酒しているいまが「ない」状態で、我慢して苦しくて、感謝などできない状態かといえば、そうでもない。

断酒は断酒で楽しいし、喜びもある。

逆説的で、少し説明が難しい部分なのだが、断酒をしていることが、「ない」わけではないように感じる。

さて、これはお酒、断酒だけの話だろうか。

愛も、お金も、健康も、いろんなものに対して、

人は、「ない」ことを嫌い、「ある」ことを求める。

されど、ほんとうに「ない」のだろうか。

ほんとうのところ、「ある」も「ない」も同じ一つの事象の裏返しなのかもしれない。

どちらにしても、たいした意味はない。

ただ、確かに「ある」と言えるもの。

どんなに私が「ない」と嘆き、悲しみ、やさぐれ、中指立てようとも、その荒波の底で静かに目を閉じる、「わたし」。

その存在は、たしかに「ある」。 

それを、「愛」と呼ぼうが、「神さま」と呼ぼうが、「悟り」と呼ぼうが、「ハイヤーセルフ」と呼ぼうが、同じことなのかもしれない。

その存在は、たしかに、「ある」。