大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

才能とは、絶望しないこと。

蝉というのは、私にとって特別な存在の一つだ。

幼き日々、どうやら寂しさを両手いっぱいに抱えていた小さな私は、いつも一人、近所の市民会館の横の小さな公園で虫捕りに勤しんでいた。

あれも、うだるような日差しの夏休みだったように思う。

共働きの父と母に代わって、祖母が面倒を見てくれていた私は、学区の違うその祖母の家の周りに遊ぶところといえば、その小さな公園しかなかったのだろうか。

そんなに広さもなく、桜の木が何本か並んでいるだけの公園だったそこには、子どもたちのヒーローたるカブトムシやクワガタなどはいるはずもなく。

私がタモと虫かごを持って追いかけるのは、小さなモンシロチョウやアゲハチョウ、シオカラトンボやアキアカネ、そして煩いほどに鳴いていたセミたちだった。

茶色いアブラゼミ、少し小柄なミンミンゼミ、お盆を過ぎると出てくるツクツクボウシ…

身体の大きなクマゼミは、当時はまだ勢力を伸ばす前で、いなかったように思う。

蝉は、小さな私にとって、いつも寂しさを抱えていた私にとって、一人の夏を過ごす私にとって、とても身近な友達だった。

その後、両親を亡くして、15年が経ったころ、その悲しみと向き合い始めた私は、たしかに蝉時雨のなかに父と母の声を聴いた

絶望的な心持ちで、夏の陽射しの下、聴こえてきた蝉の合唱。

なぜか突然に気づいたのだが、それは父と母の声だった。

それは、どこまでも真っ直ぐで、どこまでも優しかった。

そんなこんなで、蝉というのは、どうも私にとって縁が深い生きもののようなのだ。

それにしても、青空の見えない7月だった。

それでも、季節のめぐりとは偉大なもので、気付けば朝から煩いほどに蝉の声が聴こえてくる。

また、蝉の声が聴ける季節がやってきたのか。

すこし感傷的になる私と対照的に、息子はすぐに蝉取りに行く!と私を川沿いの桜並木に駆り出す。

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されど、声は確かに聴こえども、姿は見えず、午前中の釣果はボウズだった。

帰り道で癇癪を起こしながらも、息子は昼飯を食べたらまた行く!と、さも当たり前のように決めているようだった。

太陽こそ出ていないものの、湿度の高い日中の暑さの中、川沿いを散々歩いたおかげで、今年初めて一匹目の蝉を捕まえることができた。

オスの立派なアブラゼミだった。

その後、同じくアブラゼミと、メスのクマゼミと、都合三匹の蝉を捕まえ、帰り道でご満悦の息子。

しかし、帰宅して早々に、まだ捕りに行く!と言ってきかない。

さすがに夕方の三回目は、あまり鳴き声も聴こえず、結局一匹も捕まえることはできなかった。

それでも、何か所も蚊に食われながらも、何かに憑かれたように木の枝の先を眺める息子。

再び癇癪を起こしながらも、明日もまた行く、と。

私はひたすら歩いてダルくなった下半身と、木の上を見上げすぎて凝った首と肩を揉みながら、これだけピュアに好きと言えるのは才能だな、と思った。

結局、才能とは、そういうことなのだろう。

結果がどうだとか、

他人の評価がどうだとか、

資質がどうだとか、

適性がどうだとか、

使命や役目がどうだとか

何がどうあれ、絶望しないこと。

ただ、やり続けること。

ただひたすらに、好きというピュアな情熱に、殉ずること。

殉じ続けること。

才能とは、絶望しないこと。

それは言い換えるならば、

結果に、固執しないこと。

ただ、やり続けること。

その行為の中に、喜びを覚え続けること。

好きという情熱に、降参すること。

ボウズだろうが、三匹捕れようが、何回目の出撃だろうが、関係ないのだ。

成功を否定しろ、というわけじゃない。

ただ、ほんとうのところ、

人生という樹木の「果実」は、未だ来ぬ錦秋にあるのではなく、いまその行為の中に実る。

人を惹きつけてやまない「熱」は、無機質な結果の中にあるのではなく、生々しくドロドロとしたいまこの瞬間に宿る。

何度でも、繰り返す。

才能とは、絶望しないこと。

何度でも、繰り返す。

才能とは 、

いま、ここ、あるがまま。

それはすなわち、そのままのあなた自身のことだ。