衝撃の事実が判明した。
昨日のこちらのエントリーの中で書いた「お好み焼き屋さん」が、まだ営業されていることが判明したのだ。
どうも夕方にはお店が閉まるらしいのだが、このご時世において1枚150円でまだ営業されているそうだ。
それを友人に教えて頂いて、とても幸せな気分になった。
夏の暑い日に、100円玉を握りしめてジュースを買いに駄菓子屋さんに走ったのに、着いたら100円玉が見当たらない。
ポケットの中もひっくり返して探したけれど見当たらなくて、超絶ガッカリションボリしていたところ、コロン、と100円玉がポケットから落ちてきた…
そんな喜びだろうか。
またあのお好み焼きを食べに、円頓寺商店街を訪れようと思った。
=
それはさておき、その「お好み焼き屋さん」のみならず、昨日の円頓寺についてのエントリーに対して、いろんな方からSNSでコメントを頂いた。
円頓寺、私にも少しながら思い出があります
地元なので、円頓寺は同級生も多く、懐かしいです!
タバコのサンプルを配るバイトをした思い出が。円頓寺、渋いよね~
不思議な想いがした。
昨日のエントリーでは、 「記憶というのは、感情と結びつき、そしてその感情はその時間を過ごした土地と結びつくのだろう」と書いた。
もしかしたら、その土地で過ごした人の感情というのは、その土地に浸み込んでいるのかもしれないな、と頂いたコメントを読みながら思った。
何の根拠もないし、ほんとうにそうか確かめようがない話ではあるのだが。
けれども、古い街並みを歩いたときに感じるあの情感や、
たくさんの試合が行われてきた競技場の持つ雰囲気(たとえば国技館や甲子園、国立競技場など)や、
たとえば人々が祈りを積み重ねてきた寺社仏閣の静謐な空気といったもの。
そういったものは、長い歴史の中で、その土地で過ごした人が積み重ねた情感が醸成されたもののように感じる。
人と人は、物理的には離れているように見えても、無意識の深い部分ではつながっている。
あの円頓寺のアーケードの下で、雨の音を聴きながら私が覚えた情感は、もしかしたらコメントを頂いた友人たちの情感も混じっていたのかもしれない。
そう思うと、つながりを感じて嬉しくなる。
=
大暑も過ぎ、今日は久しぶりに青空が見えた。
きっとこの青空の向こうでも、どこかでだれかとつながっている。
梅雨明け間近である。