亡くなった人のことを思い出すことがある。
それは故人との思い出の写真を眺めていたり、
在りし日に一緒に来た場所を訪れたり、
区切りの命日が巡ってきたり、
そんな分かりやすいシチュエーションではなく、ふと、何の脈絡もなしに。
そういったときほど、故人を身近に感じるのは、なぜなんだろう。
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ふと足を止めて、空を見上げる時間が好きだ。
眩い夏の日差しを受け、アスファルトの熱気を感じながら、抜けるような青色を眺める。
しばらくすると、額に汗が滲んでくる。
競うように鳴いている蝉の声が、耳に響く。
そうしていると、時折その蝉の声の中から聴こえることがある。
もういまは会えない人が、何気なく話している声が。
今日は、ある方の在りし日のの声が聞こえた。
夏休みなのに、息子のやつ、ゲームばっかりして外に出やがらねえ。
あまりにも、その故人が身近に感じられて、私はあたりを見回す。
あれは何年前だっただろうか、仕事の休憩中に、びっしょりと全身を濡らす汗をタオルで拭きながら、ボヤいていた。
まあこのクソ暑い中、外に出て熱中症になるよりは、家の中で好きなことしていた方がいいんじゃないですか、と私は心の中でつぶやく。
あのとき、私はどんな答えをしていたのだろう。
苦笑いをしてやり過ごしていたのだろうか。
その言葉は覚えているのに、私がどう返したのかは、とんと記憶になかった。
変わらず、太陽はじりじりと灼けるような陽射しを送る。
玉のような汗が、頬を伝って顎へと垂れていった。
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先日のエントリーで、生命力のあふれる夏に、なぜか死を感じることが多いと書いた。
生命の死に絶える冬の真っ白な風景よりも、真夏の風景に死を身近に感じる。
「陽極まりて陰となす」なのか、何なのかと思っていたが、蝉の声、というのが一つの要因なのかもしれない。
どうも、蝉のあの鳴き声を聴いていると、不思議と故人との会話がふと思い出されることがあるのだ。
それは、夏の暑い盛りに蝉時雨のように、何匹もの蝉が同時に鳴いているときのことが多い。
緩んでふっとした瞬間に、在りし日の故人の声が聞こえる。
なんだ、ここにいてくれたんだ。
それは、故人がいなくなってしまったわけではなく、いつもどこかで一緒にいることの証明のように思えるのだ。
私が夏が好きなのは、そんな故人の声が聞こえるからかもしれない。
今日も空を見上げて、蝉の声を聞こうと思う。