さて、断酒して9か月半である。
夏の生ビールの誘惑がどうか?と思っていたが、何のことはなくノンアルコールビールで「ほろにが、のどごししゅわしゅわ」の欲求は十二分に満たされることが分かった。
あれほど「生ビールでないとダメ!」と思っていたのに、人間の思い込みとは、その外側に出てみればあっけないものである。
断酒にしても同じだ。
「お酒を飲まないなんて、人生の半分を損しているようなものだ」と思っていたのに、外側に出てみたら、そうでもないことが分かった。
「お酒」はとてもとっても素晴らしいものだし、美味しいお酒というものは文化の極みだと思うのだが、それは音楽などの芸術と同じことなのかもしれない。
「ジミ・ヘンドリクスを聴かないなんて、人生の半分を損しているよ」と言われて、「あぁ、まさにそう思うよ」と思う人と、「そういう人もいるのね」と思う人がいるのと同じようなものなのかもしれない。
何にせよ、「一度やってみる」というのは大事だとは思う。
聴かないで「ジミ・ヘンドリクス」の批判をするほど不毛なこともないし、聴かないのであればそれを好む人の嗜好を尊重することが、大切なのだろう。
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さて、その「何でも一度やってみる」ということは、人生の幅を広げ、豊かにしてくれる。
それは、断酒に限らず、生きる上でのいろんな方法論にも及ぶ話だ。
インターネットの普及により、情報を得るコストが限りなく下がっている昨今、その気になって探せば方法論はいくらでも見つかる。
ところが、情報があふれている現代では、一見すると反対のことを言っている方法論も多い。
朝早くに活動すると生産性が上がるという方法論と、
夜落ち着いてから自分の時間を確保する方法と。
モチベーションを上げて頑張る方法と、
頑張るのをやめると上手くいくという方法論と。
ランニングは健康によいという情報と、
ランニングは筋肉量を下げる弊害があるという情報と。
夢や目標をしっかりと描いてイメージする引き寄せ論と、
執着を手放した方がうまくいくという理論と。
ときに正反対のことを言っていると思うような情報があふれているのが、現代という時代なのだろう。
それは、「どちらかが正しい・どちらかが間違っている」というものでもなくて、「どちらも正しい」のがほんとうのところで、それを決めるのは、その情報を受け取る側の状態なのだろうとも思う。
今まで自分を犠牲にして頑張りすぎてしまった人には、「もう頑張らなくてもいいんだよ」ということが必要になるのだろうし、その言葉が必要でない状態の人も、もちろんいるだろう。
そうすると、どの方法論が自分に合っているか、というのは、「とりあえず、やってみる」ことがないと、分かるわけがないのだろう。
合っているかどうかは、実際にやってみないと分からない。
だから、いろいろ試してみることが大切なのだ。
そうしてやってみたり試してみた方法の中から、自分に合っているものを選ぶ、というプロセス。
昨日のエントリーではないが、そのプロセス自体を楽しむことができれば、なおのこといいのだろう。
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「断酒」というもの、たまたま「いままでの私」に合っていたから続けられているだけで、そうでなかったかもしれないし、これからどうなるかは分からない。
それは、「いま、自分はどうしたい?」と問い続けることなのだろう。
それを続けていると、どんどん自分に合ったものや方法、環境が整っていくのだろう。
そして、自分がやりたいと思ったことを、自分にやらせてあげる許可を出すこと。
それは、やってみた結果が自分には合わなかった、という失敗をする許可を出すことと同義なのだろう。
長い目で見れば、それはほんとうに自分に合ったものを選ぶプロセスの一部で、失敗なんかではないのだから。