大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

好きなことをして生きていく。

好きなことをして生きていく。

その生き方は、「好きなことのためなら、嫌なことでも何でもする」という、好きなものを持つことによるエネルギーによって支えられるものなのかもしれない。

かつて、とあるバクチ打ちの生涯を描いた漫画の中で、主人公が師匠に麻雀のイカサマのために、サイコロの出したい目を出す練習を行きつけのバーしている場面があった。

出したい目を下にして持ち、1回転半転がす。

ただそれだけなのだが、師匠は「訓練次第で誰にでもできることさ」と言う。

(ちなみに私もそれに憧れて練習したが、全くできるようにならなかった。もっとも、私が学生の当時から、すでにどこの雀荘に行ってもほぼ全自動卓が設置してあり、自分でサイコロを触ることなどなかったのだが)

主人公と師匠の、その練習を見ていたバーのママが不思議そうにこう言う。

博奕打ちってのは楽して大金を稼ごうって人種だろ

でも そのわりにはやけに勤勉じゃない

それを聞いた師匠が、笑いながらこう返す。

怠惰を求めて勤勉に行き着くか…

カカカ…それもそうだ

「怠惰を求めて勤勉に行き着く」。

この漫画を読んでいた学生時代から年を重ねるごとに、この師匠の言葉が含蓄を増すように思う。

好きなことを求めて、嫌いなことでも何でもやるように行き着く。

そんな構造と、似ているのかもしれない。

学生時代の思い出ついでに。

当時、私の博打打ちの仲間に、一学年上の先輩がいた。

理工系の学部だったその先輩を、仮に「モリトさん」と呼ぶ。

モリトさんは、博打の才能があった。

麻雀では波に乗ったときの爆発力と、そうでないときの押し引きのタイミングが絶妙で、いいようにやられた記憶しかない。

モリトさんは、麻雀以外の博打も強かった。

中でもスロット稼業に精を出し、月7桁をいつも稼いでいた。

学生の身分でそんな大金を持っていて、羽振りがよかったかというと、まったく正反対だった。

たまに何かのお祝いや、自分へのご褒美に、ラーメンにチャーシューを追加する「ぜいたく」を楽しむような人で、まったく博打でスレた感じはなかった。

そのモリトさんも、やがて研究室に入る年になり、スロット稼業から足を洗った。

付き合いで麻雀は打つが、それも研究に時間が取られ、なかなか顔を出せなくなったようだった。

疎遠になった後、久しぶりの酒の席で、モリトさんに笑いながら聞いてみたことがあった。

「モリトさん、別に7桁稼げるなら、パチプロでいいじゃないっすか。なんでやめちゃうんですか」

「いや、そうじゃないんだ。7桁勝つために、生活の中のかなりの時間を捧げてたから…これ以上はスロットでは無理だと分かった。別の方法で、8桁稼げる方法を探すんだよ」

モリトさんは、勤勉だった。

聞けば、毎日毎日、雨の日も風の日も、朝昼晩とパチンコ店に足繁く通って、全台のデータを取ってエクセルで管理して、その店の常連客などとネットワークを構築して情報収集して、当時普及し始めたネットを駆使し、雑誌にすべて目を通して…それを、365日続けていた。

モリトさんの常勝を支えていたのは、狂気じみた勤勉さだった。

おそらく、スロットを打つ時も、娯楽というよりも仕事や作業に近い感覚だったのだろうと思った。

そんなにお金稼いで、どうするんですか、と聞いたこともあった。

「やりたいことが、あるんだ」

そう言って、笑っていた。

狂気じみた執念のような、モリトさんの勤勉さを支える「やりたいこと」とは何のか。

それは、簡単に聞いてはいけないような気がして、私は「そうなんですか」と返すのが精いっぱいだったように覚えている。

「好きなことをして、生きていこう」

耳障りのいい言葉だ。

けれど、その言葉の生き方を支えるのは、ただ「嫌なことをしたくない」というマインドではなくて、「好きなことをするためには、嫌なことでも何でもやる」という強固な決意なのかもしれない。

逆言えば、「好きなこと」をするためなら、「嫌なこと」が「嫌なことでなくなる」のだろう。

すべての時間は、その「好きなこと」に捧げるためにある、と考えられたら、「嫌なこと」もなくなるのではないか。

もしも、いつかモリトさんと会うことがあったら。

今度は胸を張って、モリトさんの言っていた「やりたいこと」を聞いてみたいと思う。

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