本来、音楽とは時間の芸術であり、再現性のないものだ。
それがテクノロジーと録音技術の発達により、古くはカセットテープ、CD、そしてストリーミングなどの媒体に記録された音楽を楽しめるようになったのは、人類の歴史の中でもほんの最近の話だ。
その恩恵にあずかっている私たちではあるが、それでもアーティストのライブ、ジャズの即興演奏、あるいはシャンソン歌手の生の歌声を前にすると、心震わせ、全身の細胞を歓喜させ、血沸き肉踊り、魂を揺さぶられる。
それは、やはり音楽の「再現性のなさ」が持つ力なのだろう。
古い表現ながら、テープが擦り切れるほどに聴いた歌でも、その歌手が目の前で「いま、ここ」で表現する歌は、全く別物である。
予定調和など何もなく、ただ、その瞬間と刹那の間の名もなき空間に身を任せる。
音楽の愉悦の一つである。
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再現性が高まるほど、そのものの価値は落ちるのが、人の世の常である。
「いつでも」「どこでも」できることほど、人は価値を見いださない。
だから「今だけ」「今日まで」「期間限定」の文言に誰しもが弱いとも言えるし、それだけに音楽をライブで体験することの希少性と価値があるとも言える。
されど、このCDには再現性がない。
再現性なき、CD。
それは「よく晴れた雨模様」、「閑静な繁華街」、「さらっとして濃厚」、「150キロの超スローカーブ」などといった語義矛盾のようなのだが、実際にそうなのだから、仕方がない。
何度聴いても、一つとして同じ演奏が、ない。
それは、とても不思議なのだが。
クリスタルボウルの音の響き、うねり、重なり…
珠玉の5曲は、何度聴いても違う表情を見せてくれる。
いつしか心地よい眠りに誘われる時間になることもあれば、深く内省の海へ誘われる時間もあれば、ぼんやりと中空を眺めている時間にもなる。
このCDは、不思議だ。
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再現性が高まるほど、そのものの価値は落ちるのが、人の世の常である。
「いつでも」「どこでも」できることほど、人は価値を見いださない。
されど、真実はその逆なのだろう。
千載一遇の出会いが、人生を変えるのではない。
毎日、日々、いつも、顔を合わせる出会いにこそ、人生の果実は宿る。
誰しもが、日々、異なるバイブレーションで、異なる瞬間を、異なる世界を生きている。
その中で、たとえ一瞬でも、同じ時間を共有できるとしたら。
それを、人は奇跡と呼んできたのかもしれない。
再現性なき、CD。
このCDの奏でるクリスタルボウルの音を聴いていると、そんなことを考える。
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いつでも、会える。
それが価値を下げることもあれば、かけがえのない価値を生むこともあると知った。
いつでも、根本理加さんの音に逢える。
それは、この世界の福音のようだ。
世界がまた一つ、やさしくなった。
世界はまた一つ、うつくしくなった。
初CD「Crystal Bowl Resonance」のリリース、おめでとうございます。
心よりお祝い申し上げます。