夏休みに入る際に、子どもたちが持ち帰ってきた朝顔をベランダで育てている。
夏の朝に咲く前の美しい蕾を見せてくれたり、毎日変化があり目を楽しませてくれる。
その朝顔が咲いた後の蕾が割れて、タネが出てきた。
タネは次の新一年生に配るらしいので、集めて保管をしておくそうだ。
うっかりすると見落としてしまいそうな、小さいタネ。
間違って捨ててしまわないように、大切に集めて保管しておこう。
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植物を育てていると、ふと見かける路傍の花も、とんでもなくいろんな道のりを経て咲いていることに気づく。
種から芽が出て(それすらも奇跡だ)、背を伸ばし葉を広げ、蕾をつけ、花が咲き、そして枯れ、そこに実をつけ、種を残し、自らは朽ちて土に還る。
やがてその朽ちた身体を栄養にして土は肥え、種を受け入れ、また循環していく。
一つ一つの行程の、なんと奇跡に満ちあふれていることか。
それは、小学校の理科で習うような「知識」かもしれない。
されど、それを「体験」するということは、ほんとうに貴重で、尊いものだ。
隣で育てているオクラは、なかなか花が咲かなくなってきたが、それを見守るものまた、植物を育てる楽しさの一つかもしれない。
植物を育てていると、毎日が奇跡に満ちあふれていることに気づく。
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デュナミスとエネルゲイア。
いまから2,000年以上前のギリシアに生きた「万学の祖」とされるアリストテレスは、世界の理解のために「デュナミス(可能態)」と「エネルゲイア(現実態)」という概念を提示した。
「デュナミス(可能態)」とは、その存在が持っている能力や資質、性質がまだ発揮されていない可能的な状態にあることを指す。
一方で「エネルゲイア(現実態)」とは、その存在が持つ能力が発揮されて活動している状態、現実化している状態を指す。
この二つの概念の対比として、よく「植物の種=デュナミス(可能態)」、「咲いた花や樹木=エネルゲイア(現実態)」とする例が挙げられる。
ただアリストテレスは二つの概念を非常に多くの文脈で多義的に扱っており、種と花の例が適切とも言い切れない節があるとは思うのだが、現実世界の植物の生成と消滅を見ていると、種=デュナミス・花や樹木=エネルゲイアとは単純に言い切れないように感じる。
どちらも可能的な状態であり、どちらも現実化された状態。
どちらも夢であり、どちらも現。
そう捉えると、時代を経て「デュナミス:dynamis」が英語の「dynamic(動的な、ダイナミックな)」の語源となり、「エネルゲイア:energeia」はご想像の通り英語の「energy(力、元気、活力、気力など)」の語源となったことは、非常に興味深い。
どちらも動的なもの、どちらも流れゆくもの、流転するもの。
人の世の、常なるもの。
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すべて、いまこの瞬間が奇跡に満ちあふれている。
植物を見ていると、そんな想いに駆られるときがある。
その奇跡のような瞬間が重なり合い、交わり合い、誕生と死、生成と消滅、成長と退化を繰り返しながら、美しくつながりあっていく。
奇跡とは、ここではないどこか遠くにあるのではなく、
ただ、いま、ここ、あるがまま。