何度目かの訪問になるのだろうかと考えていた。
ぼんやりとそんなことを考えていると、初めて訪れたときと同じように、私は山中の分かれ道を間違えて、延暦寺霊園の方に行ってしまった。
毎回、この岐路を私は間違える。
単純に考えても2分の1のはずなのに、毎回この岐路を間違えるのは、
「そんなに焦らなくてもいいよ。もっとゆっくりでいいよ」
と言われているのだろうか。
正しい道に戻ると、いつもの街中の道とは一味違う山道に、エンジンは唸りを上げた。
その先に桃源郷は、あった。
以前に訪れたときの記憶と、変わらない看板を見て、私はほっと一息つく。
あぁ、またここに来ることができたんだ。
遥かなる眼下に琵琶湖を見下ろす、ブルーベリー畑の絶景。
週中の雨予報などどこへやら、夏の強い陽射しに目を細める。
ワーカホリックに仕事をしていた時代に、初めて訪れた。
ただやさしい眼をした方たちと話すだけで、癒された。
その後、折を見ては何度か訪れた。
「家電の『アース』って言葉があるけど、人もそうなんよ。土を触っていると、『アース』されて、癒されるんよ」
そう言って、三日月のような瞳をさらに細くして笑っていたのを思い出す。
子どもたちを連れて、摘みに来た。
「くろくてまんまるの、おおきなみをとってね。あかいみはあかちゃんだから、まだとっちゃだめだよ」
その教えを、子どもたちは今もよく覚えている。
風が、吹いた。
陽射しは夏だけれど、その風には秋の訪いを感じた。
それでも、夏の終わりまで、ブルーベリーのちいさな実は待ってくれていた。
久しぶりに触るその実は、記憶の中のそれよりも小さく、それでいて神々しかった。
一つ口に含むと、夏の太陽の味がした。
夏の強い陽射しをたっぷり浴びて、台風や雨にも負けず、この日まで実ってくれていて、ありがとう。
心の中で、そんなことを呟きながら、実を一つずつ愛でていく。
見渡せば、大好きな人たちもまた、思い思いの場所で、実を摘んでいる。
ときに黒い実と赤い実とにらめっこをしながら。
ときに、枝の間から覗く誰かと言葉を交わしながら。
僕は、その風景を見たかったのだと思うけれど、どこかで見た風景のような気もした。
眼下にブルーベリー畑と琵琶湖を眺めながら。
一つ一つの食材のお話しをお聞きしながら、この瞬間を愛でる。
食事を楽しむというのは、ただ料理の味を楽しんでいるだけではなくて。
ただ、その瞬間、瞬間を愛する楽しみなのだと気づかされる。
至福の時間は、私に一つの真実を教えてくれる。
すなわち、
「いま、この瞬間を愛せ」、と。
=
行きとは違う風景に見える、帰り道。
ブレーキをかけながらの下り坂。
今日、ここに来れてよかったと思う。
それと同じくらいに、またここに来たいと思う。
そのとき、私はまた行きの分かれ道を間違えるのだろうか。
それでもいいのだ、と思う。
ブルーベリー畑への行き道だって、人生の岐路だって、私はきっと何度でも間違えるのだろう。
それでいいのだ。
間違えたと思ったら、また引き返せばいい。
そして、農園で黒くて大きな実に、また今日のように教えてもらおう。
「そんなに焦らなくてもいいよ。もっとゆっくり歩いていいよ」
と。
気付けばいつの間にか、空を厚い雲が覆い始め、フロントガラスを一粒の雫が叩いた。
もう秋だな、と思った。
=
一仕事終えて。
やさしい場所にいると、顔もほころぶようだ。
お世話になりました。
ありがとうございました。