大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

電報2.0:レターポットに寄せて

大切な人、あるいは大事なタイミングには、コミュニケーションにコストをかけたい。

そして、コストをかけたコミュニケーションは「贈り物」となるが、年々「贈り物」をするハードルは高くなってきているなぁ、と最近つとに思う。

されど、以前から紹介している「レターポット」は、そのハードルを下げてくれるようにあらためて感じるので、今日はそんな「レターポット」というサービスについて、書いてみたい。

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1.「贈り物」のハードルは、年々高くなるばかり

誰かに何かを贈ることが、私は好きだ。

何かの折に触れて、お土産、お花、電報、お菓子…いろんなものを贈って、大切な人に感謝だったり、お祝いだったり、御礼だったり、気持ちを伝えたいと思う。

されど、昨今のライフスタイルの多様化と「時間」の価値の増大により、年々「贈り物」のハードルは高くなってきていると感じる。

先日、ある知人から旅行のお土産を頂いた。

中身を伺っていなかったのだが、袋を開けてみるとその土地の焼酎であった。

そういえば、私が断酒していることを言っていなかったのだなと思い、居合わせた別のお酒が好きな知人に消費してもらうことにした。

次にその焼酎をくれた知人にお会いしたときに、正直に伝えようとは思うのだが、何となく罪悪感を感じてしまうシチュエーションである。

知人が私と思ってしてくれたことが、逆に気を遣わせる結果になってしまった。

いろんなライフスタイルで生きる人が増えると、「贈り物」のハードルは上がるのだな、と実感した。

例えば「菓子折り」といえば手土産の王道だったが、昨今は「シュガーフリー」のライフスタイルで生きている人もいる。

「お酒」にしても、私のように「断酒」をしている人間にとっては、もらって特段うれしいものでもないし、それは「コーヒー」などの嗜好品全般に言えることだ。

けれど当然ながら、すぐに手に入るありふれたものでは、「贈り物」としての価値は薄く、なかなか難しいものである。

そしてもう一つ、「贈り物」は相手に「受け取る時間や手間」を強要する。

宅配便か何かで送るとしても、相手にそれを受け取ってもらう時間が発生するし、あるいは直接会ったときに渡すとしても、それを持って帰るという手間が発生する。

「モノ」がなかった時代においては、その「受け取る手間」よりも「モノを受け取る喜び」が上回っていたのだろうけれど、「モノ」が溢れる現代においては、それは万人がそう思うとは限らない。

よく言われるように、「お金」の価値が下がって、「時間」の価値が上がった現在においては、相手の「時間」を奪う行為は、よくよく考えた方がよさそうだ。

相手も了承の上で送ったり渡したりするのなら、それもいいのかもしれないが、そうなると事前に相手に連絡しておくのか?など、なかなか「贈り物」に対するハードルは高い。

よく知った関係の相手に対してなら、そういった話も問題ないのだろうけれど、そこまで深く知らない相手に「贈り物」をするというのは、そういった意味で地雷になり得る。

かくも、「贈り物」というのは年々そのハードルを上げて、難しくなっている。

それでも、「与えたがり」の私は、何か相手に「贈り物」をしたいと思ってしまう。 

いつも葛藤してしまうのである。

2.レターポットという「言葉の贈り物」

そんな葛藤を解決する一つの方法論として、キングコング西野亮廣さんが2017年の末にリリースしたWebサービスの「レターポット」がある。

もうリリースから1年半も経ったのかと思うと、時の流れの速さに驚くばかりだ。

それはともかく、「レターポット」というサービスの面白さや革新性について、以前から当ブログでも取り上げてさせて頂いている。

「レターポット」の革新性について考えてみる - 大嵜 直人のブログ

究極のコミュニケーションとは ~キングコング西野さんの「レターポット」に寄せて - 大嵜 直人のブログ

サービスの要点をまとめると、

  • アカウントは、FacebookもしくはTwitterのアカウントと連動して登録する。
  • Web上の仮想ポイント(=「レター」)を使って、相手に言葉を贈るサービス。
  • 1レター=1文字として、言葉を贈ることができる。
  • 「レター」は1文字5円で購入できるほか、自分に贈られてきた言葉も「レター」として保有し、使うことができる。
  • 「レター」には賞味期限がある(入手してから4ヵ月を過ぎると使用できなくなる)。

一読して頂くと分かるのだが、「レターポット」はメールやSNSのメッセージサービスのように、制限なく気軽に贈れるものではない。

「レター」というポイントによって、贈ることのできる「言葉」の量が制限されるのだ。

これはサービスの根幹に関わるところで、言ってみれば、普段何気なく使っている「言葉」を「有限」にしたことに、「レターポット」の肝がある。

私たちは、日常的にとんでもない量の「言葉」を目にしている。

スマホの画面から、あるいはパソコン、テレビ、雑誌、書籍から、はたまた駅の広告まで。

「活字離れ」という言葉があるが、どっこい歴史を見ても最も多くの「言葉」に晒されているのが、現代という時代だともいえる。

今日一日だけでも、数えきれないほどの量の「言葉」が生み出され、消費され、そして消えていく。

「レターポット」は、そんな「言葉」を「有限」にすることで価値を持たせ、「贈り物」としての機能を有するようにしたサービスと言えるのかもしれない。

「有限」であるがゆえに、誰もがそれを大切に扱う。

誰もわざわざコストをかけて、無料の匿名掲示板に書くような誹謗中傷や罵詈雑言を「レターポット」で贈ろうとは思わないはずだ。

感謝の気持ちだったり、愛情だったり、あるいは御礼だったり。

「レターポット」で贈るのであれば、そんな温かい気持ちを乗せて、「言葉」を選ぶのではないだろうか。

だから「レターポット」の世界ではやさしさが溢れているし、贈ることももらうことも嬉しいのだ。

3.欠点はかけがえのない長所である

欠点は何ものにも替え難い長所となる。

人の性格で考えると分かりやすいのだが、ネガティブに見える一面は、見方を変えればその人のかけがえのない長所になる。

わがままで自己中に見える人は、自由で自分を確立している人とも見えるし、
ネガティブ思考が多い人は、慎重で問題発見能力に優れている人とも言えるし、
優柔不断や意見がないように見える人は、やさしくて包容力がある人とも言える。

それらの欠点は、何ら直す必要のない「個性」であり、そのすぐ隣に転がっている長所や才能に目を向けることが大切だ。

それは人の性格のみならず、商品やサービスについても同じことが言える。

これだけネットショップでいろんなものが溢れるご時世では、「どこでも買える便利さ」よりも「現地でしか買えない不便さ」の方が価値を持つことがあるし、

あるいは、「燃費のいい量産型のハイブリッドカー」よりも、「ガソリン垂れ流しだけれども個性的なスポーツカー」がファンを集めることがある。

Webサービスとしての「レターポット」もまさに同じで、その制限(有限さ)による 不便さこそが、その最大の価値である。

たとえば、「一人の人間が一生のうちに使える文字数が100文字まで」と決められた世界に生まれたならば、僕らはその100文字をどう振り分けるか?を真剣に考える。
そして、できるだけ自分の好きな人や、自分を救ってくれた人に使いたい。


たとえば、そんな世界に生まれて、誰かが自分の為に、20文字を使ってくれたら、こんなに嬉しいことはない。

申し訳ない気持ちになるほど嬉しい。

 

レターポットで文字を贈ると、自分の手持ちの文字が減る。

そして、贈られた側は、その仕組みをもう理解している。

レターポットという世界の住人は、その世界の中で交換されている文字に価値があることを知っている。

 

西野亮廣さんブログ「最新作は最高傑作」より

電子メールから始まり、SNSやその他コミュニケーションツールは、遠くの人と瞬時につながることができるようになり、年々便利になっていく。

「レターポット」は、それと逆行するように、一見すると不便なサービスだ。

何しろ、コミュニケーションを取りたくて相手に言葉を贈ろうにも、手元に「レター」というポイントがなければ、買うか誰かからもらうかしないと贈れない。

さらには保有している「レター」の量によって、贈ることのできる文字数が制限されてしまう。

こんな不便なコミュニケーションツールはない。

けれど、である。

このサービスの内容を理解している受け手からすると、「あ、この言葉を贈ってきた人は、コストをかけて贈ってきてくれているんだな」と感じるから、ありがたいのである。

実際に、「レター」をもらったときの嬉しさは、格別なものがある。

言葉の文字数にコストをかけるという意味においては、「電報」のイメージに近いものがあるのかもしれない。

「電報」は相手の住所などが分からないと送ることができないが、「レターポット」はWeb上でいつでもどこでも贈ることができる。

そういった意味では、「レターポット」は「電報2.0」であるとも言えるのかもしれない。

メールやSNSのメッセージサービスに比べて、「電報」を贈るのには、コスト(=費用、時間、労力)がかかる。

それだけに、受け取ったときに「あぁ、差出人はコストをかけてまで、贈ってくれたのだな」と感じながら受け取ることができる。

「電報2.0」たる「レターポット」も同じである。

贈るのにコスト(=レター)がかかる。

その不便さがゆえに、贈ることの喜びと、受け取ることの喜びがまた格別なのだ。

ということで、「贈り物」や「欠点」という観点から、久しぶりに「レターポット」の素晴らしさについて書いてみた。

この不便で人間臭くて、そして素晴らしい「レター」を、贈り合える方が増えていくことを願っている。

letterpot.otogimachi.jp