先日のこちらのエントリーの続き。
夢や願望を他人に語るときに、抵抗を感じるとするなら。
もしかしたら、その原因の一つは、傷ついた経験によって自ら世界を拒絶してしまっているのかもしれない、と。
そしてその固く閉じられた扉を開く鍵は、自分が持っている愛の形ではなく、親が与えてくれた愛の形をしている、と先日のエントリーには書いた。
今日は、先日書けなかったもう一つの可能性を書いてみようと思う。
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夢や願望を語ることや、それに向かっていくことが好きな人たちがいる。
その一方で、あまり夢や願望を語ることのない人や、「夢」と言われてもピンとこない人もいる。
以前にこちらで少し書いたが、私は後者の方だった。
それは、冒頭に述べたように、ずっと世界を拒絶して、拗ねていたのかもしれない。
言ってみれば、「いつも、大切な人は私の前から突然いなくなる。父や母のように。だから、私なんか世界から愛されていないんだ」 と。
生きることとは、証拠探しの旅でもある。
「こうなのだろう」と自分が考えていることの証拠を、眼鏡をかけた視線で探しているようなものだ。
「ほら見たことか、だから私は愛されていないんだ」、と。
いろんな人の助けを借りながら、その眼鏡を外していく方に向かうことができたように思うのだが、その思い込み、前提が緩んできたように感じても、私は具体的な夢や目標というものを描くことが苦手だった。
夢を語るときの抵抗感というのは、もしかしたら、傷ついた経験から世界を拒絶しているから「だけ」ではないのかもしれない。
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なかなかクリアできないゲームほど、人は夢中になる。
どちらが勝つか負けるか分からない試合ほど、人は手に汗握って観戦する。
未来のことは誰にも分からないからこそ、人はそれに向かって努力する。
2分後の結果は決まっていないからこそ、人は馬券を握りしめて直線で叫ぶ。
叶うかどうか分からない夢や願望なればこそ、人は実現しようと必死になる。
そうだとするなら、
もしも、もしも心の奥底で願っている夢や、希望は「必ず叶う」と分かっていたら。
夢や、希望を「叶えること」に興味を持たないのかもしれない。
どうせ、それらはいつか叶うのだから。
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いま、こうして私が生きていること自体が、誰かの夢だとしたら。
遠い遠い、悠久の昔。
生命は海で生まれたと聞く。
海の中のゆらぎのような、有機物の「もや」のようなもの。
それらが、「身体を動かしたい」と夢見たのだろうか。
その夢が、いつしかアメーバのような生命になり、そして身体を動かすようになり。
それらは、いつしか見上げていた海面の外の世界を見たいと願い、「海を出たい」と夢見たのだろうか。
途方もなく長い時間をかけて、彼らはそれを実現してきた。
海の中の濃淡でしかなかった彼らは、いつしかたくさんの種に分かれ、そして進化の道をたどっていく。
彼らは、海の中の「もや」だったことを思い出すのだろうか。
その「もや」たちの夢だったことを、思い出すのだろうか。
今こうして足を踏み出し、息を吸い、太陽をまぶしく思う私が、いつか誰かが見た夢だとしたら。
あまり夢や願望を叶えようと、躍起になることもないのかもしれない。
どうせ、いつか叶ってしまうのだから。