さて、断酒して333日目である。
ふと今日は断酒について書こうと思っただけなのだが、キリのいい数字だった。
もう11ヵ月ほどになり、来月で1年かと思うとなかなかに感慨深い。
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過去にも書いたような気がするが、「お酒が好き」ということには2種類があると思う。
「嗜好品としてのお酒(味わい、香り、食事との相性…)が好き」と「お酒のある賑やかな場や酩酊することが好き」。
きれいに分かれるわけでもなく、前者7割・後者3割といった割合の話であるとは思うのだが、私が飲酒していた時分には、後者の割合が多かった。
すなわち、酔うことがおもな目的で飲んでいた。
もちろん美味しい日本酒もワインも好きだったが、特に好きな銘柄や味があるわけでもなく、ワンカップでも紙パックの焼酎でも、ただ飲めればよかったという傾向があったのは否めない。
なぜ、当時の酔うことが必要だったのか。
酔っている時間は、心の中を吹き荒れる寂しさと虚しさを忘れることができるから。
その感情は、自覚してしまうと耐えられないので、蓋を開けないようにしていた恐ろしい感情だったように思う(とはいっても、心の深い部分では気づいていたから、それを抑えるために飲んでいたのだろうが)。
時間とありがたい人の縁という癒しよって、その痛みを自覚して、「わたしはとても寂しい」と言えるようになっていったことで、それを無理矢理に忘れるために飲む必要がなくなったというのが、断酒に至った一つの心理なのだろう。
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それは割と早くに気づいていたのだが、最近もう一つ思うことがあった。
飲酒が寂しさからという動機をしていたのであれば、断酒もまた同じ動機からしている面があるのではないだろうか?ということである。
少し説明が難しいのだが、心理的な変遷をたどってみる。
隠していた寂しさを忘れるために、飲んでいた。
自分が寂しい人間であることを知って(それはとても素晴らしいことだ)、飲む必要がなくなった。
この時点で、別に飲んでも飲まなくても、どちらの選択肢を選んでもよかった。
先の「お酒が好きな例」でいえば、「お酒そのものを楽しむ」という方向にシフトして飲酒を続けてもよかったのだが、なぜか私は「断酒」という極端な方に舵を切った。
なぜ極端な方に舵を切ったのか。
いろいろ考えられるが、劣等感からという面がある。
すなわち、他人より劣っている私には、酔っ払っている時間などない、酔う前に何かしていないといけない、という自分に厳しくストイックな思考。
そして劣等感とはすなわち、「つながり」が切れた寂しさが呼び寄せる。
他者と比較することに意味がないことは誰しも頭では理解しているのだが、「つながり」が切れた心は寂しさを抱え、「他者と比較をすることで」つながろうとするのだ。
だから、「断酒」という極端な方向に舵を切る。
そう考えると、「飲酒」も「断酒」も同じ動機から来ていると言える。
どのどちらがいい・悪いということでもない。
どちらも、私にとって必要な過程だっただけだ。
その両の極を経て、私たちは「自由」を得る。
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ある感情の裏には、その逆の感情をたんまり持っていることがある。
「大切な人から愛されなかった悲しみ」は、すなわち「自分が大切な人を愛せなかった悲しみ」と同義であるように。
「大切な人に見捨てられることへの怖れ」は、すなわち「自分が大切な人を見捨てることへの怖れ」と合わせ鏡であるように。
そのどちらが正しいとか、そういった話ではない。
そのどちらも、僕らは過程のなかで通るだけのことだ。
なんの過程かって?
誰のためでもない、自分を愛するための過程に他ならない。
自分の愛に気づき、そこに戻るための、過程。
すべては自らの奥底からこんこんと湧き出る、愛から来ている。
自分を愛するために、僕らはたくさんの道を歩いて愛を知る。
ときに透き通った青い空の下を通って。
ときに土砂降りの雨の下を通って。
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さて、これからどうしようか。
飲んでも飲まなくてもいい。
それは本当の意味で、
「自由」
ということだ。