大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

花は誇らず。

早いもので、気付けば10月、神無月に入った。

午後6時に外に出ると、すでに夕闇があたりを包み始めていた。

つい先日まで、7時を過ぎてもまだ明るくて、仕事終わりにキャッチボールをして遊んでいたような気がするのだが。

季節の移ろいは、早い。

そして、それを見つめていると、いろんなことを教えられる。 

二元ではない、ということ。

円を描く、ということ。

美のない瞬間などない、ということ。

いつかまた戻ってくる、ということ。

忘却とは癒しである、ということ。

9月の終わりに、なんとか寄稿記事を脱稿して、10月は依頼された小説の納期が待っている。

7月からものがたりを書くと言っておきながら、「書く書く詐欺」になっていたが、それもそろそろ肚をくくらねばならぬ。

怖くて、仕方がない。

逃げ出したい。

とある質問を受けて。

あなたのこれまでの人生で起こったことが、もしも、あなたの才能を咲かせるためだとしたら。

あなたの才能を咲かせるために、みんながいろんな役割を演じてくれたのだとしたら。

それはほんとうに残酷で、それでいて美しい質問だった。

自分の才能を無条件に信じたいのならば、これまで自分の出来事すべてを受け入れ、感謝しなければならないのか。

美しかった思い出だけではない。

「すべてを」、だ。

「すべての出来事は、最後は感謝で終わる」

それは確かにそうだ。

ただ、アタマで理解することと、肚に落とすことは、全く別だ。

誰もが、怒りや恨みを手放して、愛と感謝と許しの世界に居たいと言う。

ほんとうに、そうなのだろうか。

私がほんとうに怖いのは、感謝することなのかもしれない。

芋虫のような幼虫は、サナギを経て、成虫のカブト虫になる。

サナギになる時、芋虫としての死を、彼らはいったいどうやって受け入れているのだろう。

古い自分の死を、いったいどうやって受け入れているのだろう。

何も考えてなどいないのだろうか。

それとも、季節がめぐるように自然なことなのだろうか。

17年前、私は自分の心がどれだけ傷ついていたか、気付いていなかった。

そんな心に寄り添ってくれたのは、ある境内で咲いていた、しだれ桜だった。

あのしだれ桜は、そうしようと意図して咲いていたのだろうか。

そうではないように思う。

癒そうとも、誉められようとも、怖れようとも、称賛されようとも、せず。

あのしだれ桜は、しだれ桜として「ただ在った」だけなのかもしれない。

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花は誇らず。

ただ咲く。