一昨日のエントリーで、ネガティブな意味での「甘え」や「怠け」、「逃げ」ではなく、自分にできないことを「仕方ないと諦めること」について書いた。
kappou-oosaki.hatenablog.jp少し時間を置いて考えると、それは「自分への期待を手放す」ことなのかもしれない、と感じたので、少しそれについて書いてみたい。
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自分への期待を手放すとは、自己価値を信じるとは別の次元の話だ。
自己価値を信じるとは、何かができること、何かの役に立つことで自分の価値があるという「わけではない」ということを知ること。
わたしは、そのままに、ただ、そこに存在しているだけで価値がある。
それは深い真実であり、忘れてはならない叡智だ。
けれど、それは「何もしなくてもいい」ということではない。
そのままに存在しているだけで、価値があることを信じられたとき、きっとあなたは自らの内から滲み出る衝動に駆られて、行動を促す。
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誰しもが幼い赤子の頃は、全知全能の神だった。
自分の欲求を世界に伝えると、世界はうやうやしく傅き、その仰せのままに従った。
温かい布でくるみ、ミルクを与え、排せつ物の付いたオムツを取り換え、抱っこして眠りに誘ってくれる。
すべての世界は、自分の周りを回る天動説のような世界に生きていた。
しかし、そんな世界もいつしか変わりゆく。
「買って、買って」とデパートの廊下で癇癪を起こしても、与えられないものがあると気づく日があり、
どれだけ泣き叫んでも、自分よりも足の速い子がいることに気づく日があり、
どれだけ抗議しても、小さな妹に両親の寵愛を奪われる絶望の日があり。
わたしはそれに絶望し、落ち込んだ気分のふりをして、自分を憐れみ、被害者になる。
だって仕方ないんだもん。
わたしは、自分が期待していたような自分ではなかった。
自分が世界の中心ではないんだから、地動説を信じるしかないじゃない。
だから、「いまある世界」にわたしを合わせるしかない。
ああよかった。
これであなたは悲劇のヒーロー、ヒロインになり、悲しい物語を紡ぐことができるようになった。
それはそれで得られるものもあるだろう。
同情か、憐憫か、庇護か、あるいは失敗しないことか。
それでも、日を追うごとに、内なる衝動はあなたの心の奥底で疼く。
「なぜ、それが手に入らないんだ」、と。
それは活火山のマグマのように煮え、たぎり、わたしの心を焼き焦がす。
もう一度、自分自身の物語を紡ぐんだ、と訴えかける。
焦燥の中で、わたしはわたしへの期待を手放さなくはならなくなる。
捨て去ったはずの、あのわたしを取り戻すために。
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鍵盤に初めて指を置いたら、
勝手にベートーヴェンの「月光」を奏でられる世界があってもいいし、
今日の買い物のメモをするように書いた文章が、
美辞麗句の並んだ詩になっている世界も面白いし、
バッティングセンターで初めて握ったバットで、
全球ホームランにできる世界もあるのかもしれないし、
けれど、わたしが生きているのは、この三次元の不自由な肉体の制約を受けた世界なので、早々そんなことにはならないはずだ。
少なくとも、私はそうならなかった。
「月光」を弾けるようになったり、
人の心に残る文章を書けるようになったり、
ホームランをかっ飛ばせるようになったりするには、
悲しいかな、反復練習をするしかない。
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もちろん、捨て去った天動説を信じることは、怖いことだ。
ままならぬこと、思うようにいかぬことが起こる度に、自分の無力さ、才能のなさ、覚えの悪さと向き合わねばならぬ(そして、それは自分に期待していた分だけたくさん起こる)。
やりたいこと、ワクワクすることには、一番やりたくないこと、テンションの下がることがくっつてくるものだ。
そりゃそうだ、世界は陰陽でできているのだから。
けれど、その内なる衝動を認識したら、もう無視することは難しい。
だから、とにかくやってみよう。
ほんの小さなことから、始めてみよう。
それが何になるのかって?
たとえ何にもならなくたって、いいんじゃないかな。
だって、やりたかったんでしょう?
「期待を手放す」とは、あきらめることとはまったく逆で。
もう一度世界の中心に自分を置くことかもしれない。