何かを手放すということは、非常に大変なものだ。
ものを捨てるということもエネルギーを使うし、いままで学んできたことといった無形のものならばなおのことだ。
親の影響、先生の教え、過去の経験から得てきたものを手放すということは、想像を絶する怖さを覚えるし、並大抵の覚悟でできるものではない。
されど、そうしたものを手放した先にこそ、自立という道があるのかもしれない。
禅の世界では、修行僧に与えらえる問題の「公案」のように、常識を外れて奇妙な言葉や、一見して理解に苦しむような言葉が多い。
それは「世界を観る」という行為と、「言葉を使う」という行為が非常に密接に関わっていることに、禅宗が十分に意識的であったように感じる。
仏と衆生、善と悪、昼と夜、男と女…など、我々は二項対立で世界を認識する。
しかし、ブッダの教えには「一切衆生悉有仏性」という言葉があるとおり、世界のすべての存在や事象に尊い価値があり、人が勝手に線を引いたものに価値があるのではない。
野に咲く小さな雑草の花も、美しく飾られた大輪の花束も、どちらにも優劣は無く、そのすべてに「仏性」を見いだせる人の心こそ、まさに「仏」そのものであるのだろう。
禅宗の言葉に触れていると、観ている世界に名づけをしたという素朴な実在論よりも、言語によって世界を分断し認識するという、ソシュールの言語論に近いような感を受ける。
その中でも有名なのが、臨済宗を開いた禅僧である、唐の時代の臨済義玄の言葉を集めた「臨済録」の中の一節である。
仏に逢うては仏を殺し。
祖に逢うては祖を殺し。
羅漢に逢うては羅漢を殺し。
父母に逢うては父母を殺し。
親眷に逢うては親眷を殺し。
初めて解脱を得ん。
無論、この一説の中の「殺し」という言葉が、そのままの意味であるはずもない。
あくまで象徴であり、それは仏、祖先、羅漢(悟りを開いた高僧)、父母、親族といった、この上なく大切なものでさえ、執着してはならないということだ。
好意も崇拝も尊敬も義理も、依存や執着を生む。
依存や執着の苦悩から抜け出し、自立した健全な関係性を築くためには、ときに「優しさ」ではなく「決意」が必要になる。
殺されるべきは、依存や執着を生みだす自らの認識なのであり、さらには仏とそれ以外の衆生といった区分をしてしまう認識である、と。
そして、その執着や認識を手放せ、と。
「殺仏殺祖」とよばれる禅の教えである。
仏に逢うては仏を殺し、
父母に逢うては父母を殺し。
自分を縛っているものは、それが仏だろうと羅漢だろうと父母だろうと、すべて虚像である、と。
そしてその虚像をつくっているのは、自分自身でしかない。
その虚像を解く鍵は、いつだって自分の内にある。