昨日のエントリーで、マインドフルであること=いまここに自覚的でいること、瞬間瞬間を丁寧に生きること、と書いた。
良くも悪くも、人はドラマを好む。
テレビで毎週ドラマを好んで観るように、自分の周りの世界においてもドラマを好む。
特別な出来事、大きな決断、運命の出会いと別れ、新たな学び…
それらの特別性は、テレビドラマや舞台の中で役者が演じる演技、遊園地で猛スピードを出すジェットコースターや、あるいは普段は見えない景色を見せてくれる観覧車と同じなのかもしれない。
それらはエンターテイメントであり、中毒性があるからだ。
もちろん、それを楽しむことに良いも悪いもない。
ただ、
テレビドラマには最終回があり、
舞台にはフィナーレがあり、
ジェットコースターや観覧車は同じ位置に戻ってくる。
ドラマには、終わりがある。
ところが、「いま」には終わりがない。
それは、何ら特別なものではなく、ありふれた、見慣れた、どこにでもある、代わり映えのしないかもしれない。
けれども、目を凝らしてみれば、いかにそれが奇跡の連続に満ちあふれたことか。
昨日のエントリーの「マインドフル」であるとは、その奇跡に自覚的である、ということなのかもしれない。
何度かここでも紹介しているジュリア・キャメロンは、その著作「ずっとやりたかったことを、やりなさい」の中で、このことを端的に表現している。
心が痛んでいるときに、たとえば将来が怖くて考えられないときや、過去が思い出すのもつらいとき、私は現在に注意を払うことを学んだ。私が今いるこの瞬間は、つねに、私にとって唯一、安全な場所だった。その瞬間瞬間は、かならず耐えられた。
(中略)
今、この瞬間は、大丈夫なのだ。私は息を吸い、吐いている。そのことを悟った私は、それぞれの瞬間に美がないことはありえないと気づくようになった。
湧き上がる感情も、
一筋の雲も、
陽の光も、
赤に変わる信号も、
「いま、ここ」にある瞬間は、どれも美しい。
それは、愛についても同じことが言えるのかもしれない。
愛とは、
いま、ここ、あるがまま。