もう週末には、暦の上で冬である。
気付けば、朝晩は冷え込むようになってきた。
秋もまだ満喫していないような気がするのだが、時の移ろいは早いものだ。
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先日、可憐な紫の花を咲かせていた、アレチヌスビトハギ。
このアレチヌスビトハギについてのエントリーを書いた気がして、調べてみたら10月11日のようで、時節は「寒露」の頃だった。
その小さく可憐な花は、ほんの2、3日で散り、代わりに青い実が生っていた。
幼い頃に「ひっつき虫」と呼んで、原っぱで遊ぶとズボンに大量に付いてしまい、取るのが至極大変だったあの実だ。
それが立冬を前にしたいま、同じ場所を見ると、その青い実は茶色く枯れて冬支度をしているようだった。
生命が絶える冬を迎える前にして、植物はその息吹を種子に託す。
枯れゆくように見えて、実はその茶色の中には、もっとも豊かな生命のエネルギーが詰まっているのかもしれない。
枯れゆく中に、命の息吹は宿る。
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人の心も同じだ。
生きがいを失い、疲れ果て、世界が色を失い、向かう方向が見えなくなった、燃え尽きたような状態。
それは、失業、病気、事故、失恋、失敗など、それまでの関係性が終わりを告げるような時が多いが、その反対と思える状態においても、デッドゾーンに陥ることがある。
傍から見れば、仕事で成功し、家庭にも恵まれているように見える人。
しかし、当の本人はその豊かさや幸せを感じられることなく、義務や役割に縛られ、何をしても楽しくなく、本人の心の中では孤独と虚無感の嵐が吹き荒れている。
感情と感覚が消え、ロボットのように表情が乏しくなり、常に疲労感を覚え、何かに追われるように感じ、身動きが取れなくて、目に映るものすべてが無意味に思え、生きながら死んでいるような感覚に陥る。
それは、心の成長過程で必ず訪れる、デッドゾーンと呼ばれる段階である。
多くの場合、それはこれまで後生大事にしてきた「自立」を手放すサインであり、大いなる福音である。
そのデッドゾーンの段階では、いままで大事にしてきた方法、成功の秘訣、有効な手段、こだわり…それらと全く逆のことが求められる。
それらを大切にしてきた結果が、いまのデッドゾーンの地点だからだ。
人に頼る、弱みを晒す、負けを認める、泣きわめく、全力で逃げる、助けを求める…それまで絶対に嫌だと思っていたことが、デッドゾーンからは抜け出るカギになる。
後生大事に持ってきたものを手放すことで、生は新しい輝きを放ち始める。
暗く灰色だった世界はほのかに色づき、人の優しさに気づき、自らの内なる愛とつながり始める。
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草花は、何も言わずに、そうした最も困難に思えることを日々繰り返している。
散らない花などなく、最も美しい花を咲かせた瞬間から、彼らはもうそれを手放していく。
茶色の小さな実に、その生命の息吹を託して、やがて枯れていく。
その手放し方の、見事さよ。
枯れゆく中に、命の息吹は宿る。