無駄な時間の使い方とは、何だろうか。
それは、自分で選んでいない時間なのではないだろうか。
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時間だけはお金で買えない、とよく言われる。
現代という時代において、お金よりも時間の価値が上がった、とも言われる。
誰にでも公平に、平等に与えられた資源である「時間」。
兎角忙しい現代に生きる我々は、それを無駄にしてはいけない、と感覚的に刷り込まれている。
行動こそが結果への唯一の道であり、そのために良質な情報を集め目的を定め、あとはトライアンドエラーを繰り返す。
何かを始めるのであれば、早ければ早いほどいい。
それは全く正しく、インターネットが情報というものの価値を破壊した現代において、ますます行動することの意味と大切さは重要さを増していく。
ところが、休む時間や何もしない時間を持つことに罪悪感を覚える。
そうすると、ケージの中のハツカネズミよろしく、倒れるまで走り回ることになる。
昨日のエントリーでも触れた、デッドゾーンが口を開けて待っている。
いったい、無駄な時間の使い方とは、有益な時間の使い方とは、何なのだろうと考えさせられる。
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実際、休みの時間というのは大切で。
ある生産的なことをしたら、同じだけ休息が必要なのだろう。
昼があれば、同じだけ夜があるように、それは陰陽の法則だ。
もちろん、夏至や冬至もあれば、春分や秋分があるように、それは移ろいゆくものなのだろうけれど。
それを無理矢理、昼を長くしようとすると、身体か、心か、どこかに不都合が生じる。
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無駄な時間とは、自分の選択でない時間なのかもしれないと、最近はつとに思う。
こうしなければならない、という義務や観念だとか。
父親なのだから、妻なのだから、男なのだから、という役割だとか。
あれをしてもらったから、という犠牲だとか。
そういった自分ではない誰かや何かのために捧げる時間こそ、無駄な時間なのかもしれない。
何をするのか自分で決めていれば、行動しようが休もうが、無駄な時間ではない。
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もちろん、100%すべての時間を自分の好きに決めることは難しい。
義務や観念や役割や肉体や罪悪感や犠牲や。
そんなスパイスがあればこその、この世である。
それを100%取り除くことは、誰にとっても無理な話だ。
ただ、その割合を増やしていくことはできる。
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そのためには、やはり意識を「いま」に向けることだ。
悔いるような過去でもなく、憂うような未来でもなく、いまこの瞬間に意識を向けること。
いま、自分がしていることに自覚的になること。
いま、自分が感じていることに目覚めること。
字を書くこと。
ボールペンの感触を味わうこと。
ごはんを噛むこと。
空を見上げること。
いま、ここ、あるがままに。
秋には紫と橙がよく似合い。