Webで注文していた2020年の手帳が届いた。
ページをペラペラとめくりながら、2019年ももう終わりかと思うと、感慨深い。
早いと思えば早いし、まだ1年も経っていないのかとも思える。
最近つとに、時の流れが歪んでいるように感じる。
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手帳はもうずっと変えていなくて、25歳のころの仕事の先輩が使っていたほぼ日手帳を使っている。
1日1ページというのが使い勝手がよく、偏執狂の気がある私の性質も手伝って、ずっと使い続けている。
当初は持ち歩きやすさからA6サイズの「オリジナル」を使用していたが、日記を書くようになってから少し小さく感じるようになり、途中からA5サイズの「カズン」に変えた。
少し懐かしくなって、昔の手帳を引っ張り出してみた。
来年で16冊目になる、昔の手帳たち。
一番昔のものは、2005年の手帳だった。
Uターン就職した名古屋で勤め始めて3年目。
ぱらぱらと開いてみると、月間予定には仕事の予定しか記載されていない。
学校の在学中に父と別れ、卒業間際に母と別れ。
親類も友人もいない名古屋で、目の前の仕事しかすることがなかった私にとって、ワーカホリックになったのは必然なのだろう。
目の前の仕事があればこそ、寂しさを忘れていられた。
目の前に積まれる仕事があったからこそ、その日その日が塗りつぶせたと言える。
もしも仕事がなかったらと考えると、恐ろしくも感じる。
人は、何かに依存しなければ、生きていけない時もある。
それ自体がいいも悪いもなく。
ただ、そうせざるを得なかった、ということだ。
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何も書いていない1日のページ。
仕事のメモで埋め尽くされた1日のページ。
当時は日記を書く習慣はなかったが、何がしかの心境を書いたらしい1日のページ。
ページをめくる手が止まる。
手帳の中の2005年は、どこか殺風景で、息が詰まりそうに重い。
いまから、14年前。
明瞭に覚えている仕事もあれば、ぼんやりとしか覚えていない仕事もあり、記憶の彼方に消えてしまった仕事もある。
苦情のお詫びに、電車とバスを乗り継いで行った山奥の地名。
職場の誰かの歓送迎会。
取引先の担当者の名前。
こんなことまでと思う、些末なTODOリスト。
何かをしていなければ、真っ黒な闇に圧し潰されそうだったのだろうか。
何かするべきことがあれば、寂しさを忘れられたのだろうか。
真っ白な休日のシフトの1日のページを見て、胸が締め付けられた。
この日は、何をしていたのだろう。
誰もいない部屋で、死んだように一人で横になっていたのだろうか。
まるで記憶のないその日を想って、私は胸が痛んだ。
ただ、あの時、自分がしていたことに間違いも何もなく。
そのおかげで、いまこうしてここで文章を書くことができている。
びっしりと書かれた1日も、真っ白な空白の1日も、2005年の私からの手紙のように思えた。
そんな風には、思えなかっただろうけど、そして、そう言われても受け取ることができなかっただろうけれど。
それでも、やはり2005年の自分に、その言葉を伝えたくなった。
ありがとう、と。
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翌日、私は常日頃持ち歩いている手帳を、めずらしく自宅に置き忘れた。
そろそろ、2019年を手放して、新しい風を入れる準備をしましょう。
そんな風に、言われている気がした。