冬至を前に伊勢志摩をめぐりて陽を探す旅1 ~三重県伊勢市・外宮(豊受大神宮) 訪問記
冬至を前に伊勢志摩をめぐりて陽を探す旅2 ~内宮・宇治橋の大鳥居から日の出を望む
冬至を前に伊勢志摩をめぐりて陽を探す旅3 ~三重県伊勢市・内宮(皇大神宮)訪問記
今回の旅の目的は、もちろん伊勢神宮の参拝なのだが、同時に訪れたい場所があった。
内宮から32号線を車で30分ほど南下したあたりに在る、「天の岩戸」である。
その名の通り天照大御神が隠れ住まわれたと伝えられ、別名「恵利原の水穴」とも呼ばれ、湧き出る清水が名水百選に選ばれている場所である。
この「天の岩戸」は、去年の1月に伊勢志摩を訪れた際に偶然通りかかって立ち寄った場所で、その後3月にもご縁を頂いて再訪することができた。
1月に訪れる前には全くその存在を知らず、現地を通りかかって立ち寄っただけなのだが、とても心に残る場所だった。
その「天の岩戸」を三度、訪れることができた。
内宮を参拝した後にすぐ出発して、9時半くらいに駐車場に着いた。
駐車場には、名水を汲んできたのだろうポリタンクを何個か積んでいた乗用車が、1台だけ停まっていた。
静かな、静かな道を歩く。
道標を見て、前回、前々回訪れたときの記憶を思い出す。
記憶というのは、不思議だ。
それは、普段は私たちのどこかにしまわれているのだが、何かの拍子にそれがふっと解凍され、身体感覚のようにリアリティをもって現れる。
その何かの拍子の鍵になるのが、五感のように思う。
何かの香りであったり、味わいであったり、その土地の空気の感触であったり、あるいは何がしかの色づかいであったり。
この鳥居を見て、その記憶がまた一段とよみがえってくる。
以前に訪れた時は、心細く、悲しい、という印象を、この場所から受けたのを思い出す。
けれど歩みを進めるごとに、その記憶の中の感触が、いまのそれとは異なるような印象を受ける。
以前ほどは、寂しくも、悲しくも、ないようだった。
どこか、わずかにだけれども、人の温かさを感じるような。
私以外、誰も周りにいないのに、不思議なものだ。
名水の湧き出る場所に着いても、誰もおらず、静かな静かな時間が流れていた。
この地で世界で初めて真珠の養殖を成功させた「MIKIMOTO」の創始者、御木本幸吉翁が植えられた「御木本杉」もそのままに。
名水の前で手を合わせ、その清らかな水に触れる。
以前訪れたときの、あのもの悲しさはどこへ行ってしまったのだろう。
前回、前々回も夕方に訪れたが、今回は午前中に訪れたから、その違いもあるのかもしれない。
この水源の奥に、「風穴」という場所があると道中の看板に書いてあったのだが、前回、前々回はそこに至る道がどこか、よく分からなかった。
しかし、その道は水源のすぐ脇に伸びていた。
思い切って、その「風穴」まで行ってみることにする。
鳥居をくぐると、ずいぶんと本気の山道が続いていた。
さすがにそこまでの準備はしていなかったので、大丈夫かと心細くなる。
そして、こういう時に限って、スマートフォンは圏外になる。
分かりやすい一本道ではあるのだが、それでも周りに誰もいない孤独というのは、怖いものだ。
何度も、引き返そうかと迷う。
けれど、途中で山登りの格好をした初老の男性二人にすれ違った。
こんにちは、と言葉を交わすだけで、これほど勇気づけられるものなのか、と思った。
何とか山道を登って行った先に、その場所にたどり着いた。
「風穴」と呼ばれる場所。
静謐さとともに、以前訪れた時に似た悲しさを感じた。
それが何なのか分からないが、それでいいのだろう。
その場所を訪れ、何かを感じること。
それ以上も、それ以下もなく。
だいぶ高くなった陽の光を浴びながら、戻る道。
「風穴」について、何か歴史的な謂れがあるのかと思い、帰ってから調べてみたのだが、これといって目ぼしい情報は見当たらなかった。
それにしても、なぜここを「天の岩戸」と呼ぶのだろう。
天照大御神が隠れたのが、ここだったという謂れがあるだろうか。
ここで感じる悲しさとともに、それは分からない。
それでも、私はまたここを訪れたいと思った。