自分を客観視することは非常に難しいが、同時に非常に大切なことでもある。
それは、自分という存在を「メタ」な視点から眺める、ということである。
映画や小説の中の登場人物から、それを眺めている観客、あるいは読み手の視点への変換。
そこに自己を客観視するという困難のヒントがある。
=
「自分を愛する」ということが大切だと、いろんなところで言われる。
「自分を愛せない人は、他人を愛せない」という台詞も、この変奏曲だと言っていい。
だが、この自分を愛するという尊い行為は、決して「愛しやすい自分」だけを愛するということではない。
他人に褒められたり、自分が満足する成果が出たり、周りに優しくできたり、あるいは誰かに愛されたり…そのような「愛しやすい自分」だけを愛せばいいのならば、楽な話である。
わざわざ「自分を愛することが大切なんだよ」と、声高に叫ばれることもないだろう。
「自分を愛する」ということで難しいのは、「愛しにくい自分」を愛する、ということである。
気に入らない容姿、引っ込み思案でネガティブな性格、誰かに嫌われたり、貶されたり、周りの優しさを受け取れなくて、逆に周りを傷つけたり…そんな「愛しにくい自分」を愛することが、自分を愛することの第一歩目であり、最終地点でもある。
「自分を愛せない自分」を愛する、ということ。
=
同じように、「正しさを手放す」という金言がある。
人間関係、特にパートナーシップにおいて顕著なのだが、「正しさ」と「幸せ」は反比例する。
それが社会的通念であれ、自分の握りしめている観念であれ、「正しさ」を押し通そうとするほどに、周りの人の心は離れていくし、同時に「幸せ」から遠ざかっていく。
「正しさ」とは、時に自分で自分を縛る鎖になる。
「正しさ」は、義務と禁止を強要するからだ。
簡単に仕事を辞めてはいけない。
将来のために毎月貯金をするべきだ。
人に迷惑をかけてはいけない。
他人から恩を受けたらお返しをするべきだ。
それらは「正しい」かもしれないが、自分の可能性を狭め、窮屈にしているとも言える。
残念ながら、「幸せ」はそこには見つからないことが多い。
「幸せ」に生きる秘訣の一つは、ぎゅっと握りしめている「正しさ」を手放すことと言える。
ここまでを前提として。
その手放す「正しさ」の中に、
正しさは手放すべきだ
という「正しさ」もまた、含まれるのだ。
『「正しさを手放すべき」という正しさ』もまた、手放すという視点。
それは、「自分を愛せない自分」を愛する、と同じ視点であり、自己を客観視する視点に他ならない。
=
「メタ」視点。
言葉について記述するための言語を、メタ言語という。
小説とは何かというテーマを書いた小説を、メタ小説という。
数学そのものを研究するための数学を、メタ数学という。
「自分を愛せない自分」を愛することを、何と呼ぼうか。
メタ自己愛、だろうか。
メタ自己肯定、だろうか。
「正しさを手放す」という正しさを手放すことを、何と呼ぼうか。
メタ正しさを手放す、だろうか。
正しさをメタ手放す、だろうか。
いずれにしても、自己を客観視するヒントになりうる。
どれだけ、観ている映画の主人公がピンチになろうと、
どれだけ、目の前のドラマのヒロインが酷い仕打ちを受けようと、
どれだけ、読んでいる小説の中の彼女が悲恋に泣き腫らしても、
あなたはピンチでもなければ、酷い仕打ちを受けてもいなければ、悲恋を経験しているわけでもない。
あなたは、あなたでいるだけだ。
いつでも、どんなときでも。
花びらを手放した、山茶花の道。