時速80kmで高速道路を走っている車がある。
後部座席に乗っていたあなたは、ふと窓の外を眺める。
さっきから変わり映えのしないガードレールの風景が、後ろに流れていく。
電信柱が、あっという間に視界の外へと流れる。
周りを走る車もなく、直線が続くようで静かな車内だ。
あなたはぼんやりとしてきて、眠気を覚える。
瞬きほどのあいだ、意識が飛んでいたようだが、あなたはすぐに目を覚ます。
その刹那、ふとあなたは車が停まっているような感覚に陥る。
この車が走っているのか。
それとも、
この車は実は停まっていて、風景が後ろに流れて行っているのか。
そのどちらかよく分からず、あなたはまた眠気を覚える。
アイザック・ニュートンなら、「車が時速80kmで動いている」と言うのだろうか。
彼は「絶対空間」と「絶対時間」をもとにして、その空間と時間は客観的に実在するとした。
それにより古典力学は、この世界に起こる事象を数式で説明することを可能にした。
アルベルト・アインシュタインは、その運動についての考えを推し進め、「運動量というのは、観測者と観測対象がいることで初めて確認することができる、相対的な現象である」とした。
相対性理論における、「相対性」の所以である。
動く物と、それを観る者。
裏を返せば、動いているのは観ている私なのかもしれない。
動いているのは、観測対象なのか、それとも観察者なのか。
運動の相対性を描こうとしたアインシュタイン。
彼がそのデッサンにおける唯一の基準線としたのは、僅か1秒のあいだにこの星を7回転半もする、光の速度だった。
冬の夕暮れ時、乾いた空を眺める。
ぼんやりとした形の雲が、浮かんでいる。
何かの形をしているように思えたが、それが何か言葉が出てこなかった。
それを考えている間に、雲はどこかへ流れて行ってしまった。
どこかへ流れていったのは、雲だったのか。
それとも、知らない間に、うっかり私がどこかへ来てしまったのだろうか。
何の形をしていたのか、それを指す言葉は、まだ喉の奥に引っかかったままだった。
雨の墓参りは、記憶になかった。
ロウソクと線香に火をつけなかったことが、あまり記憶にない。
いや、確か納骨のときが、雨だったのかもしれない。
この雨では、ロウソクも線香も、すぐに消えてしまうだろう。
花だけを手向けて、手を合わせた。
いったい、いなくなったのは、父だったのだろうか。
母だったのだろうか。
それとも、
私が
去ったのだろうか。
運動が相対的であるなら、生と死を分かつ際もまた、相対的なのかもしれない。
冷たい雨が、肩を濡らしていた。
そのぽつぽつと肩を叩く音が、妙に心地よかった。
喧噪の中で、駅員の吹く笛の音がひときわ大きく聴こえる。
少し高めの電子音が鳴り響く。
扉が閉まる。
静寂が、訪れる。
ゆっくりと、電車は動き始める。
その瞳が、ゆっくりと流れていく。
電車は加速し始める。
瞳が、流れていく。
いったい、加速していったのは、電車に乗った私だったのか。
それとも、その瞳が後ろへ流れていったのか。
そのどちらも正しくはないような気がした。
眠気は、やってこなかった。