大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

娘、という存在。

何かの気配を感じて、目を覚ます。

ここはどこだったのか、しばしぼんやりしながら考える。

ふと目を遣ると、隣で寝ていたはずの娘が起きていて、こちらを見ている。

悪戯っぽく笑いながら、

おとうさん、おといれ、いっしょにいこう?

と娘は言う。

ああ、いこうか。

真っ暗な部屋の中、手探りでスマートフォンを探す。

ライトを点けて、足元を照らしてトイレへ歩く。

スマートフォンの時間を見ると、3時半を回ったところだった。

暖冬とはいえ、足元は冷える。

トイレのドアの向こうからは、鼻歌が聴こえてくる。

こんな真夜中に起こしておいて、呑気なものだ。

それが、たまらなく、愛おしいのだが。

異性の子どもというのは、どうにも不思議な存在のようだ。

母親にとっての息子と、父親にとっての娘。

その不思議さ、そして愛おしさは、どうも非対称のような気がする。

母親、父親、という一般名詞で語ることは、適切ではないような気もする。

一般名詞で語るとき、人はどこか気恥ずかしさを隠している。

実際のところ、「私にとって」というだけの話を、「父親にとって」と拡大解釈することに、あまり意味はないのだろう。

われわれは結局、自分自身を体験するだけなのだ。

 

「ツァラトゥストラはこう言った」

フリードリヒ・W・ニーチェ、岩波書店

結局のことろ。

生とは、自分自身が何かを体験するだけのことであり。

そして、何を体験するかは、予め自分が選んでいるのかもしれない。

夜中に起こされても、

喜んでトイレについていき。

少し浮かない顔をしていると、

嫌なことがあったのか心配になり。

何かあったのか聞いても、

別に何もない!と怒られて。

余計なことを言って、

大嫌い!と言われても。

あの、小さな身体を抱っこしたときの

温かさを、いつまでも覚えているのだろう。

そんな存在が、世界にあることが、

ただ、ただ驚きで。

そんな存在が、そこにいることが、

ただ、ただ喜びで。

ただ、愛おしく。

水を流す音とともにドアが開いて、娘は手を洗いに行く。

私も起きてしまった手前と思い、トイレに入る。

ぼんやりとしながら。

水を流しドアを開けると、娘はそこで待っていた。

また、あの悪戯っぽい笑みを浮かべていた。

それが、たまらなく、愛おしい。

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トランプが好きな娘。