大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

断酒日記【442日目】 ~十牛図。執着して、手放して、最後は日常に戻る

さて、断酒442日目である。

特に大きな変化もないが、変化がないことを記しておくのも、また大切なことなのだろうと思う。

過ぎ去った歴史を振り返るとき、教科書などに残るような事件や政変よりも、その当時の「当たり前だった」生活風俗といったものが、もっとも記録に残りづらくなるように。

最近は、断酒という機会を通じて、何かを得ることと手放すことについて考えることが、多くなってきたことくらいだろうか。

ここのところ、私が興味をそそられるのが「十牛図」である。

十牛図 - Wikipedia

中国は宋の時代の禅の入門書であり、悟りへの道を表した10の絵である。

有名なところでは、京都の相国寺所蔵の十牛図がよく知られている。

それぞれの絵には、中国北宋の僧・廓庵師遠(かくあんしおん)による漢詩の「頌(じゅ)」と、その弟子の慈遠(じおん)禅師が書いたとされる漢文の「序」がつけられ、その説明が添えられている。

十牛図における10の絵では、真の自己(悟り)が「牛」の姿で表され、その真の自己を求める自己は「牧人」の姿で表現されている。

牛は普段はおとなしく、物静かでありながら、一転してあばれると手が付けられなくなるあたり、人間の心の様子に似ている。

禅における悟りを開くまでの道筋を直感的な図に表しているとされるのだが、10のそれぞれの図が表しているとされることが、非常に興味深く、心惹かれるのである。

第一図:尋牛(じんぎゅう)
自分の牛(自分の本当の心)を探し始める。
牧人が旅に出る姿が描かれる。

第二図:見跡(けんせき)
牛の足あとを見つける。
図では、牧人が牛の足あとらしきものを眺めている。

第三図:見牛(けんぎゅう)
ようやく牛を見つける。
図に描かれた牛は、その一部だけである。

第四図:得牛(とくぎゅう)
牛を捕まえる。
図では、ようやく描かれた牛の全身に、牧人が縄をかけている。

第五図:牧牛(ぼくぎゅう)

牛を飼い馴らす。
ただし、図においては牧人の手にはまだ綱が握られている。

第六図:騎牛帰家(きぎゅうきか)
牛に乗って牧人は家に帰る。
図において牧人は、牛の背中で心おもむくままに笛を吹いている。
その手には、もう手綱はない。

第七図:忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん)
牧人は家に帰り、牛のことを忘れる。
図では、牧人が家でくつろいでおり、牛の姿はもはや見当たらない。

第八図:人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)
牛のことも、自分のことも、すべて忘れる。「空」の世界。
もはや、図には何も書いてすらいない。

第九図:返本還源(へんぽんかんげん)
すべて、元通りとなる。ありのままの世界を見る。
図では、花の咲く木が描かれている。花鳥風月、そのまま。

第十図:入鄽垂手(にってんすいしゅ)
街に出て生活する。世俗の世界に戻り、与え続ける。
図では、牧人が誰かに何かを説いている。与える。

画像が貼付できないのが残念なのだが、第十図までの一枚一枚が、何度読み返してみても趣深い。

牛(=本当の自分、あるいは悟り)を探し求めて、執着し、手放し、忘れ、そしてそれを探し求めたことすら忘れ、すべては元通りの世界になり、最後はまた俗世に戻って与えることをする。

これは悟りまでの道程を描いたものなのだが、執着と手放しの美しい過程で見ることもできよう。

手放した先にあるものは、結局「元通り」なのだ。

あるものを、あるがままに見る、という世界。

それは外界に起こることを、曇りなき眼でそのままに見続ける、ということでもあるし、自己の内面に起こる諸々の感情を、そのままにしておく、ということでもある。

これを、断酒という牛を追いかけた先にある世界、と見るのは、俗世にまみれすぎだろうか。

断酒して一年が過ぎたあたりの私は、第四図(牛を捕まえる)か、第五図(牛を飼い馴らす)あたりだろうか。

「絶対に飲んではいけない」とか、「何か大きなことを成し遂げたら、一杯だけ解禁しよう」とか、そういった状態は、まだまだ牛(=断酒、あるいは目標)に執着している、囚われていると言ってよい。

次の目標は、第六図、牛に乗って家に帰る段階だ。

もう、牛が逃げないように手綱を握ることもないし、ただ心の趣くままに、牛の上で笛を吹きながら、家路を楽しむような。

その先に、忘牛存人=断酒していることも忘れる、そして人牛倶忘=お酒そのものも忘れる、という世界が待っているのだろうか。

そして返本還源=すべて元通り、あるがままの世界とは、はたして自然に断酒している世界なのだろうか、それとも自然にお酒と付き合っている世界なのだろうか。

十牛図を眺めながら、そのときを楽しみにしていようと思う。