「人間とは習慣の生き物」とはよく言ったもので、慣れてしまえば何のことでもない。
習慣があればこそ、何かを身につけ、その技量を高め、成長していくことができる。
その反面、なかなか習慣になっていることから外れることは、難しいものだ。
けれど、やはり習慣こそが、とんでもなく遠いところに人を運んでくれることも事実なのだろう。
その習慣をつくるのは、思考のような気がするのだ。
選ぶ事ができず、ただ感じるのみの感情とは異なり、思考は選ぶことができる。
そして、それは一つ一つ、選ぶ事ができる。
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「燃えよドラゴン」におけるブルース・リーのあまりにも有名な台詞、
Don't think.
FEEL!
ではないが、とかく感情に比べて思考というものは評判が悪い。
忙しい現代人のこと、考えすぎて動けなくなってしまったり、身体に影響が出るまで考えてしまったり、思考が悪さをする場面というのは多い。
多くのそれは、「考えても分からないこと」を考えすぎて、わけがわからなくなっていることが多分にある。
「考えても分からないこと」とは、すなわち自分の外側にあることだ。
他人の気持ちだったり、未来のことだったり、あるいは過去の出来事だったり。
いや、最も分からないのは、自分という内面の深淵なのかもしれない。
ドーナツなりチクワなりの形のように、内側だと思っていると、実は外側だったということはよくあるのではないか。
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一方で感情というものは、選ぶことができない。
出てきてしまったら、ただ感じるのみである。
それを無理矢理に抑えようとすると、急に沸騰したやかんが蓋を飛ばしてしまうように、身体に変調をきたしたり、大変なことになる。
感情は、選べない。
どのような感情にも優劣も善悪もなく。
ただ、そこに在るだけのものだ。
ただ、感じるのみ。
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他方、思考というものは、選ぶことができる。
こう考える、というのは、ある種の習慣であるからだ。
それは、同じようなシチュエーションになっても、違うことを考える人がいることからも明らかだ。
勤め先が潰れたと知って、人生のピンチと考える人もいれば、独立のチャンスと考える人もいる。
それは、選ぶことが出来る。
そして、もし自分が向かいたい世界があるのなら、日々自らの思考を一つ一つ選んで、積み重ねていくしかない。
一本の糸を、紡ぐように。
それを編み込んで、編み込んで、太くしていく。
それを丹念に重ねていくと、どうやっても切れそうにない縄にするこもできる。
それを選ぶのは、思考だ。
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17世紀に生きたフランスの哲学者であるルネ・デカルトは、「我思う、故に我あり」と述べた。
よくよく考えてみると、あやふやな疑わしい外界の世界に比べ、「それを疑っているわたしの思考」というのは、どうやら確実に存在するらしい、と。
神ではない根本原理を見いだした彼は、やがて知を追求するための一つの方法を唱える。
1.明証的に真であることを認めたもの以外、受け入れない(明証性)
2.考える問題を、できるだけ小さい部分に分ける(分析)
3.最も単純な問題から始めて、複雑な問題に達すること(総合)
4.何も見落とさなかったか、すべてを見直すこと(枚挙・吟味)
この方法論的懐疑とよばれる思考は、神学から科学技術を解き放ち、その後の知の方向性に大きな影響を与えた。
雨が降るのは天使の涙でもなければ、リンゴが木の枝から落ちるのは神の思し召しでもない。
思考を得ることによって、人は世界を理解し、そして記述することができるようになった。
それは、世界を知る翼だった。
その翼をどう使うかは、人に委ねられている。
ブルース・リーの名台詞の反対もまた、真実なのかもしれない。
Don't feel.
THINK!
と。
思考の広がりのような、枝の広がり。