あれは、1994年のサッカー・ワールドカップのアメリカ大会の決勝だったか、それとも1998年のフランス大会の決勝だったか、それともオリンピックか何かの別の競技だったか。
実況のアナウンサーが、その決勝の開始前に
「もし、歴史が動く瞬間をこの目で見ることができるとするなら、それはこのサッカー・ワールドカップの決勝の舞台を置いて他にありません」
というような煽り文句を入れていた。
当時、サッカーを好んでいた私は、なるほどなぁ、と感心させられたのを覚えている。
その試合をスタジアムで観戦していた観客にしてみたら、なおさらそうなのだろう。
いわゆるひとつの、"I was there."
僕も、あなたも、そこにいた、と。
=
"I was there."
「私も、そこにいたんですよ」
と語れることが、誰にでもあるのだろう。
思い返せば1999年9月30日、私も神宮球場にいた。
中日ドラゴンズが11年ぶりのリーグ優勝を果たした瞬間に、立ち会った。
最後の打者のボールを、カクテルライトに包まれたセカンド・立浪選手が大事そうに掴んだ瞬間を、よく覚えている。
降りやまない紙吹雪の中、故・星野仙一監督は、遠く離れたナゴヤドームでその瞬間を待っていたファンに語りかけた。
名古屋の皆さん、やりましたよ、と。
その姿は、どこまでもカッコよかった。
あるいは、2018年11月25日、東京競馬場、ジャパンカップ。
アーモンドアイが驚天動地の世界レコードで、先頭を駆け抜けた瞬間。
2分20秒6の数字の上に灯る、赤いレコードの文字。
スタンドから巻き起こる、見てはいけないものを見てしまったかのような、ざわめき。
スポーツに限らず、それは魂を揺さぶるコンサートであったり、または舞台であったりするのかもしれない。
あるいは美味しい感動を一緒に味わう瞬間かもしれないし、大切な人たちが集まる瞬間だったりするのかもしれない。
"I was there."
それは、その瞬間、同じ感動を共有した者だけが言える特権なのかもしれない。
=
そんな瞬間を、たくさん味わうためには、どうしたらいいのだろう。
二つ、方法があるように思う。
ひとつには、至極当たり前の話なのだが「動きつづける」ということが言えるだろう。
心が動いたり、あるいはピンと来たり。
そんな直感に従って、動いてみるということだ。
どれがその瞬間になるかなんて、分かるわけない。
けれど、動き続けていれば、足を止めなければ、必ず立ち会える。
"I was there." と。
=
もう一つは、いまこの瞬間を味わい尽くすことだ。
ひとつの呼吸、ひとつの歩み、あるいは木々のざわめき、そして目の前の人。
そのひとつひとつが、二度と戻らないかけがえのない瞬間だ。
その当たり前の事実を、もう一度思い出すこと。
今日、この当たり前の一日が、その瞬間だと認識すること。
それは、当たり前のようで、当たり前でない。
今日という日は、いまこの瞬間は、一般名詞ではない。
「今日、この日」、「いま、この瞬間」という固有名詞なのだ。
その瞬間の感動を、味わい尽くすこと。
"I was there."
「私は、今日、この日を生きたんですよ」、と。