昨日のエントリーで、「世界に何を与えるか」について書いてみた。
書き終わった後に余韻が残るので、今日も少しその続きを書いてみようと思う。
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「世界に与える」と聞くと、ごく限られた人にしかできないように聞こえてしまう。
とんでもない才能を与えられた人や、あるいは長い積み重ねによる努力や鍛錬で身につけた芸事や、そんなもののイメージ。
もちろん、それも素晴らしい「世界に与える」ことなのだろう。
そうした意味での「世界に与える」ことは、どちらかというと「才能」を意味する英単語のなかの"ability"に近いのかもしれない。
すなわち、後天的に磨かれたもの、積み重ねられたもの、努力して身につけたもの、というニュアンスである。
そうしたものに、私たちは価値を見いだし易いし、もちろんそうしたものの価値は素晴らしいものだ。
けれど、「積み重ねたもの」は必ず崩れる瞬間がある。
何かができるという能力、
何かが分かるという知識、
誰かよりも優れているという力、
あるいは何かが秀でている才能…
そうしたものから感じる優越感は、必ずそれよりも優れた能力や知識、力や才能を持った人と出会うことで崩れる。
その優越感に自らのアイデンティティを置いていると、いつかそれが認められなかったり、あるいは自分よりも優れた人に出会ったりすることで崩れ、燃え尽き症候群となってしまうことがある。
はじめはそれを学んだり頑張ったりすること自体が楽しくてやっていたのに、いつしか誰かの期待に応えたり、あるいは他の誰かと比較してしまうことで、モチベーションがすごく下がってしまう経験が、多かれ少なかれ誰にでもあるのではないだろうか。
無邪気にピアノを習っていたときは楽しかったのに、いつしか周りの期待を背負ってしまったり、あるいは自分と他の生徒を比較してしまったとき、犠牲と競争の螺旋階段を昇ることになってしまうのだ。
そういった意味で、後天的な「才能(="ability")」で「世界に与える」ことをするのは、結構危険なこととも言える。
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一方で、先天的な意味での「才能」もある。
それが昨日書いたところでいう、"gift"というやつだ。
それに近しい意味である”talent"という語も、先天的に、生まれつき天から与えられたもの、というニュアンスがある。
それは、何かを積み重ねてできるようになったことではなく、自分が息をするようにできること。
突き詰めていけば、それは「自分が自分であること」と同義となるのだろう。
何かができることもできないことも、
何かが優れていることも劣っていることも、
何かが美しいことも醜いことも、
それも全部含めて、自分が自分であることを認めること。
それを自覚している人は、それを世界に与えることができるのだろう。
積み重ねて習得した何かは、それを媒介するツールに過ぎないのかもしれない。
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熱力学の第一法則は、いかなる過程においてもエネルギーは保存されると説く。
結局のところ、才能とはそれと同じなのかもしれない。
人は与えられたものしか、与えることができない。
そして、与えられたものとは、どれだけ自分が世界から、天から、人から、愛されてきたかを自覚することと言える。
ほんの何気ない日常の細部に、愛は宿る。
自分が今日この日を迎えるために、どれだけの人が愛を贈ってきてくれたのか。
それを、自覚することといえる。
世界に何を与えるか、
を考えることとは、
世界から何を与えられたか、
を探す旅なのだろう。