何気なく、机の上に置かれたテスト用紙。
「すごいな、たくさん丸がついてるな」
と言うと、息子は
「でも、10こも間違えてる」
と俯き加減に言う。
「間違えるってのは、すばらしいことなんだぞ」
「は?なんでだ?」
「だって、その問題が分かってないってことに、気づけるから」
「でも…クラスのあの子は、ぜんぶ100てんとってる」
息子と娘も、やはり小学校に上がると、比較と競争の世界に巻き込まれるようで。
誰の頭がいい、誰の足が速いなど、教えてくれる。
本人の自主性に任せて、「好きなことを好きなだけ」やらせてくれていた保育園に通っていた息子と娘から見ると、「保護者も参加するマラソン大会があるくらいのスパルタ」の幼稚園に通っていた児童は、テストも縄跳びも、何でもよくできるようだ。
けれど、その他人との比較と競争の螺旋階段には、終わりがない。
それにいつ気付くのか、だけの話しなのだが。
「100点取るのが、テストの目標じゃないぞ。友だちよりもいい点数を取ることが、目標でもない。でもまあ、比べちゃうよな。おとうもそうだった」
ふーん、とめずらしいものでも眺めるような目で、息子は私を見る。
「勉強が楽しいのは、昨日知らなかったことを、知ることができることだと思うよ」
無言。
「いま何が分からないかを知るために、テストがあるだけだよ」
「ふーん」
「でもまあ、比べちゃうよな。おとうもそうだった。まあ、比べたかったら、好きなだけ比べて、悔しがって、それをバネに思い切り勉強したらいい」
そして燃え尽き症候群になって、一人で頑張ることを手放すことを知ったらいい…までは長くなりそうなので、やめておいた。
しかし、もうその話題に飽きたのか、すでに息子は娘とコタツの中で懐中電灯を照らして洞窟ごっこをしている。
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洞窟遊びに飽きた息子は、コタツの中から
おとう、鬼の役をやって!
と要求してきた。
コタツを四方からガオー!と言いながら突っつく。
そうして戯れていると、
誰かに言いたいことは、自分に言いたいこと。
という金言が思い出される。
そしてその「誰か」は、身近な存在であればあるほど、自分に言いたいことに近くなる。
「いま何が分からないかを知るために、テストがあるだけ」
だとしたら。
日常的にテストを受けることもなくなった大人の私にとって、何がテストの答えなのだろうと考える。
この、いまの目の前の世界なのだろう、と思った。
いま、この目の前の世界。
もし、それが間違っているように見えたり、あるいはこんなはずはないと思ったりしても、それはすべてテストの解答と同じなのだ。
その間違いに気づくために、テストはある。
そして、それは気づいたら、それで終わりなのだ。
あぁ、そうなのね、と。
いま、目の前の世界が、テストの答え。
こんな間違いは、殊更にいとおしい。