大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

春という季節が持つ根源的な不安について。

午前中はなんとか持ちこたえていたが、昼過ぎから降り出してきた。

それでも、その雨粒はほのかに暖かい。

「雨水」の時候らしく、地に潤いと恵みを与えるような雨だった。

冬の刺すような冷たさの雨は、もうない。

それでも、気怠い午後だった。

どこか、このどんよりとした空のように重苦しく、そして不安げで。

濡らした枕の冷たさで起きた明け方のような、重苦しさ。

春は、いつもこんな心持ちになる。

かつて、とても悲しく、心が壊れるようなことが、あの春の日に起こったからだろうか。

麗らかな春のあの日、しだれ桜をながめていた。

焦点の合っていないような目で、ただぼんやりと。

心が、死んでいた。

いや、生きるために、全てを切っていたのかもしれない。

その日のことを、季節がめぐるたびに、思い出すからだろうか。

春は、もうそこまで。

次々に芽吹き、そして花を開かせるこの季節を、皆が心待ちにする。

冬という季節に閉じ込められて、ぎゅっと固くなって、いつ終わるとも知らぬ長い夜に、心は倦んでくる。

それだけに、ほんの少しの春の気配に、誰もが喜びと安堵を覚える。

ようやく、冬も終わる、と。

ところが、この世界は陰陽で彩られているように、春の訪れはまた、喜びの裏にある不安をも連れてくるのではないか。

それは、変化ということが恒常的に孕む不安でもある。

ホメオスタシスとトランジスタシス。

いまを変えようとする力と、現状を維持しようとする力。

その狭間で生きるのが、人の世の常なように。

春を待ち望みながら、冬がいつまでも続けばいいのに、と思っているわたしが、確かにいる。

いまの自分を変えたいと口では願いながら、心の奥底では現状がもっとも居心地がいいと感じているように。

いつも、わたしたちは原因と結果を取り違える。

もともとそうだったものを、あえて原因をつけて説明したがる。

時間がないから、何かができないのではなく、ほんとうのところは、その逆だ。

何かをしたくないから、時間がない状況にあえてしている。

原因と結果は、かくもややこしい。

わたしが春という季節に、根源的な不安を覚えるのは、その暖かさが心のかさぶたを剥がすからではないのだろう。

もともと、そうなのだ。

芽吹き、花咲くものと同じくらいの量で、その裏側にある、枯れゆき果てていくものに、心を惹かれるのだ。

燃えゆく命の輝きとともにある、命の儚さ。

春という季節は、根源的に不安と重苦しさを孕む。

わたしの心は、どうしてもそちらに目が向く。

それは、春の悲しい記憶とは、関係がないのだろう。

和名で「夏枯草(なつかれくさ)」、漢名では「靫草(うつぼくさ)」と呼ばれ、紫色の美しい花を咲かせる草がある。

ほかの草木がほとんど枯れゆく冬至のころに芽を出し花を咲かせ、その名の通り夏には枯れてしまう。

待ち望んだ春もあれば、枯れゆく春もある。

夏枯草の名の響きに、わたしは美を覚えてしまうのだ。

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満開の白梅には、曇り空がよく似合い。

どうしても「東風吹かば」の歌を思い出してしまう。