午前中はなんとか持ちこたえていたが、昼過ぎから降り出してきた。
それでも、その雨粒はほのかに暖かい。
「雨水」の時候らしく、地に潤いと恵みを与えるような雨だった。
冬の刺すような冷たさの雨は、もうない。
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それでも、気怠い午後だった。
どこか、このどんよりとした空のように重苦しく、そして不安げで。
濡らした枕の冷たさで起きた明け方のような、重苦しさ。
春は、いつもこんな心持ちになる。
かつて、とても悲しく、心が壊れるようなことが、あの春の日に起こったからだろうか。
麗らかな春のあの日、しだれ桜をながめていた。
焦点の合っていないような目で、ただぼんやりと。
心が、死んでいた。
いや、生きるために、全てを切っていたのかもしれない。
その日のことを、季節がめぐるたびに、思い出すからだろうか。
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春は、もうそこまで。
次々に芽吹き、そして花を開かせるこの季節を、皆が心待ちにする。
冬という季節に閉じ込められて、ぎゅっと固くなって、いつ終わるとも知らぬ長い夜に、心は倦んでくる。
それだけに、ほんの少しの春の気配に、誰もが喜びと安堵を覚える。
ようやく、冬も終わる、と。
ところが、この世界は陰陽で彩られているように、春の訪れはまた、喜びの裏にある不安をも連れてくるのではないか。
それは、変化ということが恒常的に孕む不安でもある。
ホメオスタシスとトランジスタシス。
いまを変えようとする力と、現状を維持しようとする力。
その狭間で生きるのが、人の世の常なように。
春を待ち望みながら、冬がいつまでも続けばいいのに、と思っているわたしが、確かにいる。
いまの自分を変えたいと口では願いながら、心の奥底では現状がもっとも居心地がいいと感じているように。
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いつも、わたしたちは原因と結果を取り違える。
もともとそうだったものを、あえて原因をつけて説明したがる。
時間がないから、何かができないのではなく、ほんとうのところは、その逆だ。
何かをしたくないから、時間がない状況にあえてしている。
原因と結果は、かくもややこしい。
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わたしが春という季節に、根源的な不安を覚えるのは、その暖かさが心のかさぶたを剥がすからではないのだろう。
もともと、そうなのだ。
芽吹き、花咲くものと同じくらいの量で、その裏側にある、枯れゆき果てていくものに、心を惹かれるのだ。
燃えゆく命の輝きとともにある、命の儚さ。
春という季節は、根源的に不安と重苦しさを孕む。
わたしの心は、どうしてもそちらに目が向く。
それは、春の悲しい記憶とは、関係がないのだろう。
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和名で「夏枯草(なつかれくさ)」、漢名では「靫草(うつぼくさ)」と呼ばれ、紫色の美しい花を咲かせる草がある。
ほかの草木がほとんど枯れゆく冬至のころに芽を出し花を咲かせ、その名の通り夏には枯れてしまう。
待ち望んだ春もあれば、枯れゆく春もある。
夏枯草の名の響きに、わたしは美を覚えてしまうのだ。
満開の白梅には、曇り空がよく似合い。
どうしても「東風吹かば」の歌を思い出してしまう。