ここのところ、お酒について書いていなかった。
誰かと会食があったりすると、たまにお酒を飲みたい欲が出てくるが、それも過ぎ去ってしまえば、忘れてしまう。
「忘れてしまう」ということは、それほど大切なものでもないのだろう。
寝ても覚めても、そのことばかり考えてしまうモノ。
どうやら私にとって、お酒はそうしたモノではないのかもしれない。
気付けば、断酒して481日を数えていたが、もうあとは数字が積み上がっていくだけで、それほど意味もないのなのだろう。
淡々と、粛々と。
そんな表現が、しっくりくる。
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お酒は、私に居場所を与えてくれた。
それは、心地よいいつものお店であったし、張り詰めていた心の緊張を緩めることでもあったし、あるいはお酒の場での打ち明け話であったり。
それは私にとって、つながりと陶酔感を与えてくれた。
自らの心の傷と、もとからの大容量の寂しさを自覚していなかった頃の私にとって、それは大きな救いだった。
人生のタラレバは酒の肴くらいにしかならないが、もしお酒がなかったら、私はその傷と寂しさをどこにぶつけていたのだろう。
そう考えると、お酒があってくれて、ほんとうによかったと思う。
その傷と寂しさを自覚したいまとなっては、飲んでも飲まなくても、どちらでもいいように思える。
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悩んでいることは、たいていその人の問題の本質ではない。
飲むのか、飲まないのか。
続けるのか、辞めるのか。
行くのか、行かないのか。
愛するのか、別れるのか。
二択になってしまった時点で、もうその人の視点は近視眼的になっている。
その状態では、「どちらを選ぶか」という答えしか模索できない。
ほんとうのところ、そのどちらを選んでも、たいして違いはないのかもしれなくて。
どちらも正解かもしれないし、どちらも不正解のこともあろう。
「その問題が、自分に突き付けてくる問いかけとは何か?」を考える視点が、必要なのだろう。
問題の解決とは、忘却であるという。
どちらが正解か?で悩む問題は、どちらを選んでも解決しない。
その問題が、どちらでもいいと思え、頭から離れてしまうとき。
それが、忘却という問題の一番の解決なのだろう。
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さて、同じような時期に断酒を始めた岩橋隆盛さんは、ライフワークカウンセラーとして、先日、初のワークショップを共催された。
やはりタラレバにあまり意味はないが、断酒が大きな契機だったことは、岩橋さんもブログで書いておられる。
その岩橋さんの姿を見ていると、もう少し飲まなくてもいいかな、とは思っている。
何はともあれ、岩橋さん、おめでとうございました&おつかれさまでした。