さて、断酒して493日目である。
2018年の11月からなので、酒を断って1年と3ヵ月ほどだろうか。
今日は以前によくお酒の席をご一緒させて頂いた知人の方と、久しぶりに話しをする機会があった。
その方は、あまりお酒が強い方ではないので、
「そうかぁ。俺からすると、普通に飲めるのに、もったいないって感じはするなぁ…」
とボヤいておられた。
もったいない。
そう評されることが、どこか新鮮だった。
なるほど、もったいない、か。
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確かに、アルコール(アセトアルデヒド)を分解する酵素は、それが正常活性している遺伝子の型(NN型、お酒が強い)と、NN型の16分の1しか活性しない遺伝子(ND型、ある程度は飲める)、そして活性のない遺伝子の型(DD型、まったく飲めない)があると聞く。
そして日本人の4割強は、お酒が飲めない「DD型」か、少しは飲める「ND型」らしい。
つまり、お酒が強い「NN型」は日本人の半分くらいしかいない、ということだ。
ちなみに、欧州系やアフリカ系の方は、ほとんどが「NN型」だそう。
検査したことはないのだが、お酒を飲んでいたという経験則上、私は「NN型」か「ND型」のいずれかなのだろう。
そう考えると、「お酒が飲める」というのは、天から与えられた一つの特性であるともいえる。
(決して、飲めない遺伝子を持っていることがいけないとか、そういうわけではない)
確かに、そう考えると、今日のその方の言う「もったいない」というのも、分かる気がする。
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お酒で考えると、どうも実感が湧かないのだが、この話を資質や才能の話に置き換えると、分かりやすいかもしれない。
足が速い。
手先が器用。
肩が強い。
絵が上手い。
声が美しい。
・・・などなど、そうした生まれもった資質を持った他人見るにつけ、「それは使わないともったいないよね」などと思ってしまう。
思ってしまうのだが、それを使うかどうかを決めるのは、その本人でしかない。
「ありあまる才能を持っているのに、もったいない」
と思ってしまうのは、それを見る人のエゴであり、コントロールである。
お酒が飲めても、飲まないという選択をするのと同じように、それは尊重されてしかるべきだ。
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そう考えていくと。
資質や才能というのは、それが「使える」ことが恩恵なのではなくて。
それを「使うかどうか、選べる」ことが恩恵と考えることも、できるのではないか。
足がべらぼうに速くても、
手先が超絶器用でも、
肩が滅法強くても、
写真のようなデッサンが秒でできたとしても、
天上の音楽のような美しい声を持っていたとしても、
それを使ってもいいし、使わなくてもいい。
選べる、ということ。
それは、自由である、ということ。
資質や才能の恩恵とは、自由であることと言えるのかもしれない。
まずは、自分の資質や才能がどこにあるのか、自覚することが始まりではあるのだが。
日本酒がほしくなるカワハギ煮つけ。