大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

3月11日。

3月11日。
水曜日。

予報通りに、よく晴れていた。

濡れたアスファルトは、夜半まで雨が降っていたことを教えてくれた。

けれど、よく、晴れていた。

3月11日。

よく、晴れていた。

多くの人にとって、特別な意味を持つであろう、その日付。

当たり前が当たり前でないことに、想いを馳せる、その日付。

されど、私にとっては、3月10日の次の日という想いの方が、強い。

kappou-oosaki.hatenablog.jp

痛み、というものがそうであるように。

悲しみというものは、どこまでも個人的な領域にある。

他人の親知らずの痛みを、共有することができないように。

全体としての悲劇は、原理的に存在し得ない。

だからこそ、私たちは言葉を紡ぎ、心を寄り添わせるのだが。

共有はできなくとも。

共感はできるのかもしれない。

それができなくても。

忘れないことは、できる。

もし、忘れられないのなら。

ただ、身を委ねよう。

放棄しよう。

身を任せ、沈もう。

何時間でも、何日でも。

沈んで沈んで、その底で、

祈ろう。

浮かんでは消える、うたかたのような想いを添えて。

母を想うとき、私は不在を想う。

それは、母そのものの不在でもあり、

もしかしたら、

母とともにいたはずの自分の不在なのかもしれない。

3月11日。

あのときの、あの空は、まだ同じ色をしているのだろうか。

f:id:kappou_oosaki:20181207200149j:plain