啓蟄を過ぎ、春分を迎え。
いよいよ春めいてくると、やはり外に出たり、何かを始めたりしたくなるようで。
周りの知人や友人たちが、身体を動かしているのを見たからもあるのだが、少しずつ身体を動かしている。
ランニングか筋トレのどちらかを、毎日少しずつしていこうと思っている。
今日は、筋トレの後遺症で、筋肉痛が身体の各所に出ているが、元来のM気質ゆえ、それも心地よい。
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筋肉痛は、運動などで激しく動かしたり、負荷が加わったりした筋繊維が傷つき、それを修復する際に起こる炎症が原因と聞く。
その修復をする際に、傷ついた筋繊維は、傷つく前よりも太く強い筋繊維になろうとする。
筋肉痛の前の状態よりも強くなろうとする、この現象を「超回復」と呼ぶ。
筋トレはこれを繰り返すことで、強く太い筋肉を持った身体をつくろうとすると、高校生の頃に部活で学んだように覚えている。
けれど、どうも筋トレは私の性分に合わないようで、あまり続いたことがなかった。
春だから。
そんな理由で始めるのも、いいのだろう。
同じような理由で、止めてもいいのだから。
断酒のように、やってもやらなくてもいい、くらいの緩さで、ゆっくりと歩こう。
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身体が教えてくれることは、全て正しい。
そうだとしたら。
筋肉の痛みが教えてくれることもまた、正しい。
痛み、というものは、私たちを成長させてくれる合図なのかもしれない。
頬をつねって引っ張ると、当然ながら、痛い。
けれど、そのときに頬は伸びて広がっている。
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その腹筋や足の筋肉に痛みを感じるとき。
それは、傷ついた筋肉が、健気にも前よりも強くなろうと、再生しているとき。
おなじように。
もしも、心に痛みを感じるときは。
それは、傷ついた心が、前よりも広く深くなろうと、再生しているときかもしれない。
痛みは。成長がゆえに。