その写真を見てしまったら、もう取るもの手につかなくなった。
SNSで、たいせつな友人の方が、玉置山の画像をアップしたのを見てしまった。
私のこころは、そぞろに。
一年前に訪れた、あの玉置山へと飛んで行ってしまった。
人間関係において起こる問題の多くは、往々にして自分と他者との境界線があいまいになることから生じる。
そして多くのそれは、相手の心や気持ちへ共感する力が強い人、すなわち「やさしい人」ほど、そうなりやすい。
多くは父親や母親との癒着関係を、職場の上司、パートナー、友人といった様々な距離の関係に、投影する。
相手の感情を、自分の感情以上に、敏感に感じ取ってしまう。
相手の気分や感情に一喜一憂し、忖度することを重ねていくうちに、いつしか相手の感情が自分の感情とイコールになってしまう。
自己と他者との境界線が、溶けてしまって、どこまでが自分の感情か、分からなくなる。
二人分の感情を抱え、自分の感情を押し殺し、頭の中では常に相手のことを考えてしまう。
それはそれは、しんどいし、疲れる状態だ。
癒着、とも呼ばれる状態。
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その状態を抜け出すための処方箋は、冒頭の逆をすることだ。
すなわち、自分と他者との境界線を、もう一度引き直す、ということ。
わたしはわたし、上司は上司。
わたしはわたし、妻は妻。
わたしはわたし、父親は父親。
わたしはわたし、あなたはあなた。
と。
どんなにその相手が機嫌が悪くても、自分には関係がない。
彼がこの先どうなっても、私の人生とは関係がない。
母にどう思われようとも、私は私の道を往く。
ある意味で、冷たくドライと思えるかもしれない、それらの態度が、癒着を解くキーストーンになりうる。
かくいう私も、半年ほど呪詛のように、そうした言葉をつぶやいていた時期がある。
わたしはわたし、あなたはあなた。
わたしはわたし、あなたはあなた。
わたしはわたし、あなたはあなた。
…と。
結局のところ、相手に対してほんとうに「やさしく」なろうと思うのならば、自分が自分でいること以外に、何もできないのだろう。
他人の感情を背負うことなど、誰にもできはしないではないか。
だとしたら、自分が自分でいるほかない。
ならば、境界線を明確に引き、自らの内なる感情にこそ目を向けるべきだ。
それこそが、相手に対しての優しさだ。
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と、ここまでが前段として。
はたして、わたしたちは、さきほど引いたその境界線の通りに分断されているのだろうか。
よく晴れた春の空を見ていると、そうでもないような気もする。
おなじそらのした、誰かが桜を愛で、誰かは美味しそうなどら焼きを食べ、誰かは玉置山を登っている。
その誰かは、わたしなのだ。
わたしが桜を愛で、わたしががどら焼きを食べ、わたしが玉置山を登っている。
裏の裏は、表。
真実に見えることの裏側もまた、真実なのだろう。
わたしはあなた、あなたはわたし。
わたしはあなた、あなたはわたし。
これだけ青くて広い空の下、きっと、つながっている。
これだけ青くて深い海の底、きっと、つながっている。
=
一年ほど前に、十津川村、そして玉置山を訪れた。
あのエメラルドグリーンの川の色。
神気が立ち昇るような靄。
時折、背筋が凍りそうになる山道の運転。
玉置神社に咲くシャクナゲの赤。
そして、この世のすべての知っているような、神代杉。
三重県を縦断して南下し、熊野路からぐるっと北上した旅。
ハードワーカーらしく、午前3時半に家を出る強行スケジュールも、いい思い出である。
行ってよかったと思う。
今日のその友人の方は、その逆巻きに、奈良県から南下していったそうだ。
きっと、わたしのこころも、あの玉置山にいたのだろう。
一年前と同じように、今日の玉置山も晴れていたようだ。