大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

雑巾がけ、あるいは五体投地。

小学校の頃、掃除の時間があった。

あれは、たしか給食の時間の後だったような気がするが、もしかしたら午後の授業が終わった後だったかもしれない。

机と椅子を後ろに下げる役目、ほうきをかける役目、黒板を掃除する役など、いろんな役割があった。

その中で、みんなに不人気だったのが「雑巾がけ」のように覚えている。

誰かがこぼした牛乳を拭いた雑巾が混じっていたせいか、掃除道具入れの雑巾は

、どれも汚くて臭かった。

水で濡らして絞ると、そのクサイ匂いが増幅して、使うと手にその匂いが映るのだ。

石鹸で洗っても洗っても取れない、その匂いとともに、午後の授業を受ける時のテンションの低さを思い出す。

「アメリカの小学校は、掃除の時間がないらしいよ」

友人がどこかで聞いてきたのであろう情報を聞いて、羨ましく思ったものである。

掃除の基本は、拭き掃除だよ

なぜか心に残っているその台詞を、誰から聞いたのか私は思い出せない。

祖母だったのか、それとも小学校の先生だったのか、あるいは。

翻って考えてみるに、小学校のように雑巾を使って床を拭く、ということをしなくなっ久しい。

いつもは掃除機と、クリーニングシートを柄の先に付ける道具で、済ませてしまう。

大掃除以外では、雑巾を使うことはめったになくなってしまった。

それでも、やはり拭き掃除は、掃除の基本だとは感じる。

洗濯機なり、食器棚、あるいは冷蔵庫、カーテンレール、照明の傘…拭き掃除をするということは、それらのものに「触れる」ということだ。

そして「触れる」ということは、「意識を向ける」ということでもある。

「手当て」という言葉が、「怪我や病気を処置する」という意味を持つように、人が何かに「触れる」ということの力は計り知れない。

拭き掃除とは、ただそこにある見慣れた景色に、命を吹き込む。

掃除の基本は、拭き掃除。

拭き掃除のたびに、私はその言葉を思いだす。

そんなこんなではあるが、昨日、久しぶりに自宅の床を雑巾がけした。

膝と両手を床につける、懐かしさを覚える体勢。

いつもと目線が違うと、世界はこうも違うのか、と驚く。

無心になる、地に手をつける時間。

地につけると言えば、「地に足をつける」という言葉をよく聞く。

自分の根っこを大切にすることだ。

何ごとも根っこが不安定だと、幹は太くならないし、花も咲けない。

グラウンディング、という言葉とも言い換えられる。

自分の根っこがどこにあるのか、意識をすること。

それは、地に手をつけるという身体的な動きでも、感じられるのかもしれない。

地に手をつける動作といえば、「五体投地」が想起される。

仏教において、最も丁寧な礼拝の作法とされる、「五体投地」。

額、両手、両膝という「五体」を、「知に投げ出す」姿勢を取る、一連の礼拝である。

チベット仏教の僧侶の巡礼が有名だが、日本においても多くの宗派が得度や儀礼の際に用いられるられる。

両膝をつき、額を地につけ、両手を投げ出す。

その際、両の手は掌を天に向ける。

己の身体を投げ出し、御仏の差し出すものは、何でも受け取ります、という宣言。

それは大いなるものに自らを委ねるという、究極のサレンダーであり、また地に手をつけるという自らの根源に還る行為でもある。

雑巾がけ。
あるいは、五体投地。

不安なときや、心が揺れるときは、地に足…に加えて、手をつけてみる。

目線をぐっと下げてみて、無力で、矮小で、どうしようもなく、ただ祈り願うことしかできない私が、そこにいる。

それを直視し、受け入れる。

そのとき、人は初めて、できることしかできないことを知る。