文章が上手くなる、とは、どういうことだろう。
たとえば、「この横断歩道を歩いて渡ってください」という指示は、理解できる。
理解できるし、「歩く」ことができる人は、その指示を実行することができるだろう。
ところが、「この横断歩道を『上手く』歩いて渡ってください」という指示ならば、どうだろう。
「上手く歩く」とは、なんぞや?と、混乱する。
歩くことができる人もいれば、当然、できない人もいる。
けれど、上手く歩く、とは、どういうことだろう。
歩く姿が、堂々としている人もいる。
猫背で歩く人もいる。
モデルのキャットウォークのように歩く人もいる。
スタスタと小股で歩く人もいれば、
あるいは、大きな歩幅でドスドスと歩く人もいる。
見る人によっては、そこに美醜はあるのかもしれない。
けれど、どの歩く姿も、「その人」の歩く姿である。
その人のこれまでの歩みが、想いが、その姿に出る。
その姿に、「上手い」も「下手」もない。
ただ、その人であるだけ。
その歩く姿に滲み出るものこそが、
個性
と、呼ばれるものなのかもしれない。
歩くことと、書くことは似ている。
それは、生きることとも同義であるようにも思うが、どうだろうか。