永遠に続く冬がないように、過ぎない春もまた、無い。
消えては生じる輪廻のように、あるいは運命の火車のように。
すべては順番にめぐり、すべては繰り返す。
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人と人の関係性もまた、そのような順番の中にある。
教師と、生徒。
上司と、部下。
惚れる側と、惚れた側。
リーダーと、フォロワー。
子どもと、親。
自立している側と、依存する側。
どのような関係性であれ、その関係性が続くのであれば、各々の立場はいつか入れ替わる。
教えていたのに、いつの間にか教えられていた。
向こうが熱心だったはずなのに、いつしか自分が執着している。
引っ張られているうちに、気付けば先導する立場に。
あんな親にだけはならないと思っていたのに。
頼りにしていたはずなのに、いつの間にか物足りなく見えてしまった。
それは、関係性の成熟のサインであり、また関係性が壊れる危険性を孕む瞬間でもある。
いままで優位的な立場にいたはずの側が、その立場の逆転に耐えかねた場合。
そして、
いままでフォローに回っていた側が、新しい世界を観てそれに惹かれてしまった場合。
それは別れ話になり、疎遠になり、あるいは絶縁になったりする。
いずれの場合も、それまでの立場がひっくり返るとき、その関係性は終わりを告げる契機になる。
けれど、よくよく考えてみれば。
別れ、疎遠、絶縁したところで、関係性は終わらない。
たとえ今生の別れがあったとしても、それは関係性の終わりを意味しないのかもしれない。
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幼い私は、シーソーを「ぎっこん、ばったん」と呼んでいた。
父方の実家の近く、大きな川が流れる公園で、日が暮れても遊んでいた。
身体が浮いたかと思えば、すとんと落ちる。
すぐに、また身体がぐっと浮いて。
私の反対側に座っていたのは、誰だろう。
祖母だったのか、それとも、姉だったのか。
人と人の関係性は、シーソーのように。
惚れられた側にふわふわと座っていたと思えば、いつの間にか惚れた側にドスンと落ちる。
安心して教えられる側に座っていたのに、気付いたら教える側にぐいっと浮いたりする。
季節が巡るように、輪廻の車輪が回り続けるように。
それは繰り返す。
幼い私は、ちょうど中間で、ふわふわと浮いている状態に、どうにかしようとする。
座る位置、身体の向き、体勢を、調整しながら。
ちょうどバランスが取れる地点が、確かにあった。
人と人の関係性も、同じで。
ちょうど、バランスが取れる状態が、確かにあるのだろう。
過ぎ行く春、咲く春。