痛みは幸福の閾値を下げる。
これは誰にでも経験があることだと思うのだが、ある種の「痛み」は「幸せ」を感じるハードルを下げるのだ。
たとえば、幼少期にひどい喘息を患った友人の一人は、「呼吸ができるだけで、幸せだと感じる」と言っていた。
あまりにも当たり前にしている「呼吸」という行為が、ある人たちにとっては「幸福」そのものである、と。
その友人は、一晩中ずっと喘息に苦しみ、眠れない日が続き、そしていつそれが治癒するのか、見通しも立たない時期があったと聞く。
そんな経験をしたからこそ、「呼吸」というもののありがたみや奇跡を、私よりも深く知っているのかもしれない。
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同じような話は、枚挙に暇がないだろう。
震災や台風で避難生活を余儀なくされた経験のある人は、今日寝る場所があることや、暖かいご飯が食べられるという日常に、深く感謝するのかもしれない。
幼い頃の家庭環境で、経済面で不自由があった人こそ、お金のありがたみ、そしてお金の持つ力を十分に理解できるのかもしれない。
愛する人との別れを経験したからこそ、いま目の前にその人がいる奇跡を感じられるのかもしれない。
あるいは、外出や移動の制限が加わった今だからこそ、先人たちが築いたインターネット技術の恩恵や、その逆に実際に会って話をする尊さを感じられるのかもしれない。
痛みは、幸福を感じる閾値を下げる。
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さて、ここで私たちがしがちな誤りは、こうだ。
「痛みは、幸福の閾値を下げる」
のならば、
「幸福の閾値を下げるならば、痛みがないといけない」
と。
つまり、「痛みがなければ、幸福がない」という思い込みに囚われるのだ。
これは滑稽なように見えるが、一度意識の底にもぐりこんでしまうと、無意識に「痛み」を求める行動を取るようになる。
「幸せになりたい」と願っていながら、気付けば「痛みを感じるよう」な選択を重ねてしまう。
ハードワークを強いられる職場、あるいは自分を大切にしてくれない人たちとしか付き合えなかったり。
これは「ふと」、「なんとなく」、「無意識で」、そうした選択を重ねてしまうことが多いので、なかなか気づくことが難しい。
けれども、果たして痛みがなければ、人は幸福を感じられないのだろうか。
いや、そうではないのだろう。
どんな状況でも、人は幸せを感じることができる。
そうだとしたら、痛みを感じることは、幸福のための条件ではないだろう。
論理学においては、ある命題が真であった場合、その「逆」は真ではない。
「ネコは動物である」という命題に対しての「逆」は、「動物ならばネコである」だが、これは真ではない。
命題の逆は真ならず、である。
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痛みは幸福の閾値を下げる。
けれども、その逆は真ならず。
人は、いつでもどんなときでも、幸せを感じることができる。
それは、野にそよぐ一輪の花を見ることでも感じられるし、あるいは空を見上げることで感じることもできる。
それは、人に与えらえた、もっとも偉大な力の一つなのだろう。
一輪の路傍の花が、無限の幸福を与えてくれることもある。