大きな音を立てて、社会が変わろうとしている。
これまで常識だったものは一晩にして非常識になり、これまで資産だったものは裏返って負債となっていく。
インターネットも、パソコンも、スマホも、コロナウイルスもなかった子ども時代を過ごした私たちが、いったい子どもたちに何を教えられるのだろう。
何を、与えられるのだろう。
つくづく、そう思う。
過去の干からびた成功体験か。
あるいは、手垢のベタベタついた台詞か。
はたまた、その手に握りしめているカビ臭い所有物か。
むしろ、旧世代の我々の方が、子どもたちに教えられるべきなのだろう。
心配するよりも、笑顔を、信頼を、安らぎを、贈ろう。
You can take a horse to the water,
but you can't make him drink.
馬を水辺に連れていくことはできるが、
水を飲ませることはできない。
もとはイギリスの諺だったと思うが、アドラー心理学の本でも出てきたような気がする。
アドラーは「課題の分離」という命題を訴えるが、それはすなわち「自分と他人との間に明確な線を引く」ということに他ならない。
関係性の距離が近くなってしまうと、「馬に水を飲ませる」のが自分の課題だと思ってしまうが、「水を飲むかどうか」は馬の気分次第であり、馬の課題だ。
それは、自分にはどうしようもできないことであり、コントロールしようとするだけしっぺ返しを食らう。
それはもちろん、何もしなくていい、という訳ではない。
「馬を水辺に連れていく」ことをした上で、水の美味しさをきちんと伝えることが、自分の課題なのだ。
ありていに言えば、「子どもが勉強する環境を整えること」は親の課題であっても、「子どもが勉強すること」は親の課題ではない。
それをどうこうしようとするのは、親のコントロール欲があり、また支配欲であり、自信のなさがあり、世間や他人の視線を気にしているからだ。
子どもが思い通りに動かないことで、親がむやみに罪悪感や無力感を感じて、子どもたちの生きる力を奪うことほど愚かなことはない。
子どもは、親が思っているよりもずっと賢く、そして冷徹に世界を観ている。
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花は、咲くときには咲く。
そして、時が満ちれば散る。
それをどうにかコントロールしようとするのは、滑稽なことだ。
来年の桜を楽しみにするように。
信頼して、そして、笑って、今日を過ごそう。
名残桜。