しばらく雨が続くな、と思っていたら、いつの間にか「穀雨」の節気に入っていたようだ。
穀物に実りをもたらす恵みの雨が、しとしとと降り続くころの節気。
万物清らかな「清明」のあとに、雨が降り続く節気がやってくるという自然の摂理が、何とも美しい。
七十二侯では、「葭始生、あしはじめてしょうず」。
水辺の葭が芽吹き始め、目に見る植物が緑一色に輝きはじめる。
かの日本書紀にも「葦原中国」の名がある通り、古来より私たちはその色を見つめてきたのだろう。
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携帯電話やスマートフォンのカメラ機能のアルバムに入っている写真は、その人の頭の中を表す、と聞いたことがある。
さもありなん、と思う。
美味しいものが好きな人は美味しい料理の写真、
つながりが好きな人は誰か一緒に移る写真、
恋人や子どもが好きな人はその人たちの写真、
プラモデルが好きな人はそればかり、
旅行が好きな人は観光名所の写真…
そんな写真が、アルバムに増えていくのだろう。
いつしか、私のスマートフォンのアルバムには、空や、草花の写真がほとんどを占めるようになった。
昨今の外出自粛のせいもあるかと思ったが、何のことはない、以前からそうだったのだ。
何でもない空の表情や、路傍の花の色、葉脈の形…そんなものばかりが、私のスマートフォンのアルバムを埋めている。
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スマートフォンのアルバムがそうならば、ブログもまたそうなのだろう。
季節の移ろいと、その美しさ、その循環の完全さ。
そして、それを見つめている際の、いまここに在る瞬間。
気付けば、そんなものばかりを書き留めてきたような気がする。
スマートフォンのアルバムと同じように、私の頭の中の大半は、そんなことばかりを考えているのかもしれない。
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この時期に長引く雨は、「催花雨、さいかう」と呼ぶこともある。
花が咲くことを催す雨、というほどの意味だろうか。
慈雨、という言葉がある通り、雨には植物を育て、花を咲かせる力がある。
その言葉の美しさとともに、降る雨の音に耳を澄ませてみよう。
それは、いまこの時候でしか、できないことだ。
食べものでも、そうであるように。
旬を追う、というのは贅沢なことなのだろう。