四季を感じながら、走るといいよ、とアドバイスを頂いた。
ランニングについて、である。
もっと、楽しんでもいいのかもしれない、と思った。
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とかく私は、「走ること」については、継続出来た日数とか、走った距離とか、走れた時間とか、あるいは何キロ痩せたか…などなど、どうしてもそういったものに左右されてしまう。
いや、それは「走ること」に限らない話ではあるのかもしれないが。
数年前、心が痛んでどうしても辛いとき、走ることは私の心を救ってくれた。
右足を出す、左足を出す、腕を振る…同じ動作を何十回も何百回も繰り返して、身体が温まっていくうちに、不思議と無心になれた。
それは、ある意味で瞑想に似ていたのかもしれない。
地に墜ちた自己価値を、もう一度信じるために、何日継続出来たとか、これだけの距離を走ったという積み上げは、私の心を支えてくれた。
継続性は、男性性を鍛えてくれる。
けれど、その継続性は、ときに自己否定の裏返しでもある。
走り続けることで、いまの自分を変えなければいけない。
それ続けなければ、自分の価値はない。
半ば強迫のようなその観念のおかげで、うだるような暑さの真夏だろうが、寒風吹きすさぶ真冬だろうが、走り続けることができた。
それは、続けた分だけ自信と確信を与えてくれた。
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けれど、踝を疲労骨折しても走り続けたランニングは、一年半ぐらい経ったころ、ぱたりと走れなくなった。
それは、自らの抱える大容量の寂しさに気づいたことと、決して無関係ではないように思う。
燃やし続けた自己否定というガソリンが、尽きたのかもしれない。
それからは、走ったり走らなかったり。
けれどやはり、走らないことに罪悪感や自己否定を覚えてみたりしていた。
そうしたことも含めて、いまこのタイミングで、そのアドバイスを聞けたことに、意味があるのかもしれない。
四季を感じながら、走る。
なんだ、いつも通りのことなのかもしれない。
自分の足の裏の感触を、一歩、また一歩と確かめながら。
目の前の色に、目を凝らす。
いま、ここにあるリアリティに、耳を澄ませる。
一日として同じ色はなく、同じ風景もなく。
季節はめぐる。
四月も終わりに、まだ咲いている桜があった。
いま目の前の季節が、一番いい季節かもしれない。
季節に目を凝らしていると、そうやって目の前の世界を否定しなくなるように感じる。
それは、心地よい気候のいまの季節だから、ではない。
うだるような夏の盛りだろうが、
寂寥感あふれる秋の訪いだろうが、
厳しい冬の寒さだろうが、
どの季節でも。
季節の移ろいに身を任せていると、「いま」の季節が、一番いい季節だと感じるようになる。
葉桜の極みのような、その色を愛でながら。
走ること、生きること、楽しむこと。
少しずつ、走ることを楽しもう。
Enjoy Run, Enjoy Life.