大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「昭和の日」の水面に、過ぎゆく平成の日々を思い出すこと。

昭和の日。

昭和生まれの私にとっては、「天皇誕生日」もしくは「みどりの日」の名称の方が、しっくりくるのだが。

調べてみると、2007年(平成19年)施行の改正祝日法で「昭和の日」と名を変えたそうだ。

すでに10年以上も経っていることに、驚きを隠せない。

昭和は遠くになりにけり、とはよく聞いた言葉だが、すでに平成も遠くなりつつある令和に、遠くなった昔を想う。

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そんな4月29日。

陽射しと風は、もう卯月というよりも、皐月という語の方が、よく似合う。

川沿いの道の桜並木から、川面が光っていた。

どこか、懐かしいそのやわらかな光。

同じ色の、あの光を見たのは、昭和ではなくて平成だっただろうか。

勤めだして、数年経ったころだっただろうか。

祖母が入居していた施設は、故郷の近くのはずれにあった。

当時、一人暮らしをしていた私は、折を見て祖母の施設を訪ねていた。

季節に一度か、いや半年に一回だったような気もする。

免許を取得して以来のペーパードライバーで、当然ながら車はなかった私は、赤いバスに3,40分ほど揺られて、その施設に行っていた。

バス停から降りて、その施設まで10分ほど。

施設のそばには、川が流れていた。

川沿いの土手から眺めた水面の光が、今日の光によく似ていた。

同じ、新緑の季節だったのかもしれない。

当時の私といえば。

突然訪れた父と母との別離の痛みから、感情を切ってロボットのようにハードワークに勤しんでいた。

仕事上の距離においては、当たり障りなく人間関係を築くことができるのだが、心の中ではどうしようもない虚無感と、大容量の寂しさを抱えていた。

それに気づくのに、15年以上もの歳月と、奇跡のような人の助けを必要としたのだが、当時はそんなことを知る由もない。

部屋の天井を、ただ眺める休日が、多かった。

それが嫌だったからだろうか、休日出勤が当たり前だった。

出勤すれば誰かに会えるから、というのも、その理由かもしれないし、もっと働かないと自分の価値はない、という無価値観からかもしれない。

コロナ禍で在宅勤務へのシフトが、飛躍的に進んでいく、いま。

出勤という制度は、時代の遺物になっていくのかもしれない。

けれど、無駄の極みかもしれないその制度で、私の孤独は救われていたのかもしれない。

無価値観や自己否定が強いと、自分が楽しむための予定を立てることが難しくなる。

「しなければならないと」、「やらなければいけないこと」でしか、予定を埋められなくなる。

悪い意味での義理や、あるいは犠牲を、自分の喜びよりも優先してしまうのだ。

当時の私もそうだったのかもしれない。

次の休日の予定を、自分のために埋めることができないでいた。

もし、顧客からクレームが入ったら。
いま進めている大事な仕事が遅れたら。

そんなことばかりが頭をよぎり、自分の楽しみは後回しになる。

結果、周りから半強制的に休まされた日は、一人で天井を眺めることになる。

そんな当時の私が、能動的に入れた数少ない予定の一つが、祖母を訪ねる、ということだ。

それは、周りが見るような祖母を想って、という理由ばかりではなかった。

あの赤いバスに揺られて、川沿いの土手を歩くという時間が、自覚なく虚無感と寂しさに圧し潰されそうな私を、癒してくれていたのかもしれない。

祖母のところでは、いつも他愛もない話に終始した。

1時間ほど話して、また川沿いを歩き、赤いバスに揺られ、自宅に戻る。

それで、よかったのかもしれない。

祖母は、筆まめな人だった。

一日一回の郵便を、心待ちにしていたようだった。

「今日は旗日だから、郵便はなしだねぇ」

そんなことを、言っていた。

当時の私はといえば、ハードワークに任せて、自宅の郵便受けを毎日開くことすら、ままならなかった。

たまに気づいて開けるが、郵便受け一杯に詰め込まれたDMの類に辟易して、分類もせず自宅のテーブルでそのまま放置されるのだった。

その山に埋もれた友人の結婚式の案内状の返信期限を過ぎてしまったことも、一度ではなかったように思う。

仕事はしていても、生活はしていなかったのかもしれない。

丁寧な祖母の生活を、羨ましく感じたこともあった。

いったい、どれだけ頑張ったら、そんな生活ができるようになるのか。

定年退職した後か、それとも、生活に困らないくらい貯蓄が積みあがったら、なのか…

その思考のベクトルが、まったく違う方向を向いていることに気づくのに、ずいぶんと遠回りしたものだと思う。

おそらく、いまできないことは、定年退職しようが、お金がどれだけ入ろうが、きっとできない。

たいせつなことは、その逆だ。

祖母は、そんな生活をしていたように、いまとなって気づく。

祖母の部屋から見えるきらきらとした水面の色は、新緑の色に映えていた。

辺り一面の田んぼが、水を張っていたような気がするから、あれはやはりこの4月の終わりか、5月の頃の記憶だったのではないかと思う。

「今日は旗日だから、郵便はなしだねぇ」

ひょっとしたらその記憶は、今日と同じ「昭和の日」だったのかもしれない。

水面の色に、そんな過ぎゆく日を思い出す。

そんな、令和はじめての「昭和の日」だった。

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皐月を迎えても、咲いてそうだ。