読んでいて美しい日本語とは何だろう、とよく考える。
一つには、それは使われる単語の順番ではないかと、最近つとに思う。
それは、単語の順番を入れ替えても意味が通じるという、日本語固有のものかもしれない。
=
こうやって高尚な書き出しをしておいて、話はまったく下世話な方に移る。
私の学生時代の友人に、カズト(仮)という友人がいた。
以前にここでも紹介したが、雀荘かパチンコ店でしか会わない、生粋の博打仲間だった。
彼の苗字を知ったのも、知り合ってから1年以上経ってからだったように思う。
カズトは滅法、麻雀が強かった。
惚れ惚れするような打ち回し、正確無比な読み、最後に勝ち切る力…どれをとっても、当時の私の仲間内で頭一つ抜きんでていた。
雀荘から居酒屋に場所を移しての感想戦では、いつもあのときの一打がどうのこうのこと、傍から見れば本当にどうでもいいことで、朝まで酒の肴にしていた。
あるとき、麻雀の強さとは何だろう、という話題になった。
プレイヤーに全ての情報が公開される将棋や囲碁と違い、麻雀は不確定要素が多い。
最初に配られる手札(配牌)や、そこから与えられる手札(ツモ)はコントロールができない。
一生、麻雀を打ち続けても、同じ配牌とツモには出会えないとも言われる。
そんな中でも、やはり強い打ち手はいる。
そうした打ち手は、何が違うのだろう。
強運だろか、いや、揺れない精神力だろう、いやいや、理論だろう、などと、アホな議論を交わす中で、カズトの答えを、私はよく覚えている。
=
「いや、多分順番だろう」
同じ配牌と同じツモを与えられて、強い打ち手とそうでない打ち手の違いは、牌を捨てる順番だとカズトは言うのだ。
「その一巡の後先の積み重ねが、大きな差になると思う」
カズトは言っていた。
題名は失念したが、ある麻雀漫画の中で、同じようなことが言われているのを見つけ、私は嬉しくなったのを覚えているが、カズトはそれを知っていたのだろうか。
それはともかく、同じ素材を与えられても、それを良い結果に結びつける打ち手もいれば、想うような結果にならない打ち手もいる。
その差は、「順番」だと。
そうカズトが言っていたのを、何気なく思い出す。
=
どうでもいいような話を挟んだが、日本語の美しさというのも、同じように「順番」が一つの要因なのだろうと感じる。
言語類型論において、日本語は「膠着語」という語に分類される。
単語に付く助詞や接頭語などで、その文の意味が決まるという言語である。
同じ「膠着語」には、朝鮮語やハンガリー語、フィンランド語が分類され、だから日本人がこれらの語の文法に親しみやすいと言われる。
一方で、英語や中国語は「孤立語」として分類され、助詞を持たず、単語の位置がその意味を決める。
He makes me happy.
という文は、その単語の順番が意味を決めており、それを入れ替えることはできない。
だから、英語教育においては、文法や文型を最初に学ぶのだろう。
もっとも、私の時代と違って、早期に英語に触れるようになっているので、また今は違っているのかもしれないが。
=
その人をその人たらしめているものは、それは才能である。
それは、その人がコンプレックスや短所に感じていたとしても。
日本語を日本語たらしめているもの。
「膠着語」としての要因が、そのまま日本語としての美しさの要因の一つではないかと思う。
蝉時雨の中に、確かに私はあの人の声を聴いた。
確かに、蝉時雨の中に、私はあの人の声を聴いた。
蝉時雨の中、確かに私は、あの人の声を聴いた。
あの人の声を、私は確かに、蝉時雨の中に聴いた。
どれも、同じ内容の文なのだが、ずいぶんと受ける印象が違う。
そして、その文を重ねていくとすると、やはりその語の順番というのは、大きな印象の違いを与えるのだろう。
日本語を第二言語として学ぶ人からすると、「分かりづらい」、「あいまい」として敬遠される、その性質こそが、日本語を日本語たらしめている。
それはとりもなおさず、日本語のアイデンティティであり、固有の美しさの一つではないかと思う。
それは、人の長所や美しさに置き換えても、全く同じなのだが。
と、ここまで書いておいて、麻雀の話しは、あまりに脈絡がなくて効いていないような気もするが、それもまたよしとしよう。
美しき日本の朝の風景。