建物を出た瞬間、熱気と呼べるような空気にあてられた。
アスファルトからの照り返しが、その熱気をさらに強調するようだった。
夏の乾いた暑さは耐えられるのに、この梅雨の合間の晴れた日の蒸し暑さときたら。
右手で陽を遮りながら、急いで車に乗り込む。
車の中も、すでにサウナのうだるような熱気がこもっていて辟易とした。
=
二人とも無言のまま、車はのろのろと進む。
年度末でもないだろうに、市内のいたるところで道路工事をしていて、その度に引っ掛かった。
無為に終わった交渉は、もはや忘れるだけだ。
解決しない問題は、放っておくしかない。
できることをしながら、時間という妙薬が効くのを期待するということも、またひとつの解決方法なのだろう。
沈黙に飽きたのか耐えかねたのか、上役はオーディオのスイッチをいじっていた。
受信したFMから、聴き慣れた歌声が聞こえてきた。
泣かした事もある 冷たくしてもなお
よりそう気持ちが あればいいのさ
男二人の車内に流れる「いとしのエリー」に、私は苦笑する。
構わず桑田さんはエリーへの愛を切々と歌い上げる。
俺にしてみりゃ 最後のLady
エリー my love so sweet
何度聴いても、名曲である。
そして、名曲というのは、私たちを簡単に時空を飛び越えさせる力を持つ。
学生時代の戯れに、「エリー」の名を惚れた女性の名に変えて歌ったことを思い出す。
二十歳もいっていないような年端のガキが、「最後のLady」もないもんだ。
残念ながら、その場にいたのは男だけだったが。
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「やっぱり、桑田ってすげえよな」
不意に上役がつぶやく。
「これ、俺が二十歳そこらの曲だから、もう40年以上前の曲だぞ。それなのに、全然古くねえ」
40年以上前というと、ギリギリ私が生まれているかいないか、の時代だ。
「へえ、そんな昔だったんですか。私が学生時代でも、みんな知ってましたよ。よくカラオケで歌ってた」
「なあ。いま売り出したとしても、結構売れるんじゃねえか?」
たしかに、時代を超越させる何かを持っているような気がする。
桑田さんは少ししゃがれた声で、エリーへの愛を歌い続ける。
笑ってもっとbaby むじゃきにon my mind
映ってもっとbaby すてきにin your sight
誘い涙の日が落ちる
エリー my love so sweet
エリー my love so sweet
また道路工事の渋滞に嵌って、上役は舌打ちをした。
「10年ひと昔って言うなら、40年なんて大昔だな。けど、変わらないもんは変わらないもんだ」
変わらないのは男と女なのか、それとも道路工事の渋滞なのか、よく分からなかった。
どちらでもいいような気もした。
「暑いっすね」
全然効かないエアコンに、私は温度調整のスイッチを触ってみた。
「そりゃお前、もう夏だからな。40年前といえば、こんなエアコンがついてる車なんてなかったんだぞ」
「は?なかったんですか?」
「ああ、辛うじて『カークーラー』ってのが、そこに付いた車があったかな」
そう言って、上役は助手席のダッシュボードを指差した。
年配者と話すのは、これが楽しい。
かつてあったが失われた時代の空気や何やらを、教えてくれる。
「そりゃ、真夏の運転は地獄だな…」
「まあ、自転車や原付に比べたら、全然マシだと思ったよ。そう考えると、エアコンが付いて便利で涼しくなったのに、幸福度は下がるって、おかしなものだな」
そう言われてみれば、面白いものだ。
人間の幸福とは、外的な何かに起因するものでもないとは、その通りなのかもしれない。
いや、エアコン自体は素晴らしいものであり、それが幸福度を下げたというよりは、幸福を感じることのできる「感度」の問題なのだろう。
それが「当たり前」になった瞬間に、感じられる幸福は極端に少なくなる。
ぼんやりそんなことを考える私をよそに、スピーカーからはエリーへの想いが流れてくる。
笑ってもっとbaby むじゃきにon my mind
映ってもっとbaby すてきにin your sight
泣かせ文句のその後じゃ
エリー my love so sweet
エリー my love so sweet
エリー my love
エリー
エリー。
不意に口ずさんでいたのは、あの頃の私だった。
フロントガラスの向こうでは、梅雨時期らしくない入道雲が見えた。
やはり、もう夏である。