夏色が、足りない。
ようやく梅雨明けしたものの曇り空が続いて、夏の陽射しが感じられない。
あるべきところに、あるべきときに、あるべきものがないと、どこか心はぽっかりと穴が開いたように感じられるものだ。
夏生まれで夏が好きな私にとって、うざったいほどの暑さがない夏というのは、どうも調子が狂うようだ。
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夏色、としか呼べないような色がある。
夏のよく晴れた青い空、地平線には入道雲の頭が見えて。
虹はないのだけれど、どこかプリズムを通したような七彩が感じられる、その陽射し。
あの色は、夏にしか現れない。
霞がかってぼんやりとやさしい輪郭の春の空にも、
透き通ってどこかへ繋がっていそうな秋の空にも、
凛と張り詰めて幾何学模様を見るような冬の空にも、
あの色は、ない。
一年の中で、この時期にしか見れないのだ。
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その夏色は、どこか孤独と週末の色をも帯びている。
それは、私の夏の原初体験とも関係しているのだろうか。
近所の公園で、一人タモを振った幼い頃。
バッタ、セミ、チョウチョ、トンボ…市民会館横の小さな小さな公園は、驚きと喜びに満ちあふれていた。
来る日も来る日も、夏休みはタモを振っていた。
いつも、ふと気付けば、公園には誰もいなかった。
時折、だれかが遊んでいたブランコ、滑り台、飛び石、雲梯…主のいないそれらの遊具は、どこか虚ろで、蜃気楼のように揺れて見えた。
セミの鳴き声が重なる中、そしてあの夏色が世界を染める中、私は一人だった。
大通りに出ると、決まって遠くの方に、逃げ水がゆらゆらと揺れていた。
時に、自転車で追いかけた。
けれど、どこまで走っても、その水は同じ遠さでゆらゆらと揺れているだけだった。
夢中になることと、孤独になることは、どこか似ている。
そしていつしか、ツクツクボウシやヒグラシの声を聴き、夏の終わりを悟る。
夏の彩りと、終わりの切なさは、どこか相似形をしている。
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旧暦と太陽暦の違いはあれど、一年の終わりは12月31日である。
けれど、どうも私にとっては、夏の終わりが何か終わりというか、区切りのように感じるのだ。
それは、とても熱中していた本を読み終わったときの寂しさのようでもある。
まだお盆も迎えていないのに、そんなことを考える私は、それだけ夏が好きなのだろう。
それにしても。
夏色が、足りない。
もっと。
もっと、夏色を。
雲の多い今日の空。夏色ではない。