大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

呼吸に対するイメージについて。

自分の呼吸に対するイメージングについて。

瞑想なり、あるいはストレッチなりをしていると、自分の呼吸に意識が向く。

自分の呼吸の長さであったり、深さであったり、あるいは乱れであったり、そうしたものを感じる時間。

そこに良いも悪いもなく、ただ
「(今日の自分は、いまのじぶんは)そうだった」
ということを知るだけの時間なのかもしれない。

それを、内省と呼んだり、内観と呼んだりするのだろう。

それは、日々の「なすべきこと」に追われてしまうと、なかなか持てない認識でもある。

呼吸に意識を向けることは、自分をいま、ここ、に戻してくれる。

産まれ落ちてから、絶え間なく繰り返してきた、その無意識の所業は、そんなことを教えてくれる。

さて、その上で、呼吸に対するイメージは「出すもの」と「入れるもの」をどうイメージするか、と同義なのかもしれない。

何を吸い、何を取り込み、
何を吐き、何を捨てるのか。

その内観や内省の時間に、どういうイメージを持つかというのは、非常に大切なような気がする。

よく聞くのは、吸うときに清浄な空気を吸い込み、そして吐くときに身体の中のモヤモヤした汚れを吐き出す、というイメージだ。

呼吸をするごとに、身体の中が清らかになっていく、というイメージ。

それはとても説得力がある。

けれど、最近思うのは、その逆のイメージもまた、呼吸の真実に近いのではないか、ということである。

すなわち、外界の汚れや曇った空気を取り込み、そして身体の中を通って清らかな空気に変わり、それを外界に戻す、というイメージ。

人の身体というのは、汚れが溜まるものともいえるし、その反対に、汚れたものを浄化する清らかなもの、と見ることもできる。

そのどちらのイメージも、確からしく見える。

浄と、不浄。
清と、濁。

よくよく見れば、どれも世界の一部でしかないのかもしれない。

呼吸とは、まさに循環するもの。

どちらのイメージも、真実の一つなのだろう。