自分の呼吸に対するイメージングについて。
瞑想なり、あるいはストレッチなりをしていると、自分の呼吸に意識が向く。
自分の呼吸の長さであったり、深さであったり、あるいは乱れであったり、そうしたものを感じる時間。
そこに良いも悪いもなく、ただ
「(今日の自分は、いまのじぶんは)そうだった」
ということを知るだけの時間なのかもしれない。
それを、内省と呼んだり、内観と呼んだりするのだろう。
それは、日々の「なすべきこと」に追われてしまうと、なかなか持てない認識でもある。
呼吸に意識を向けることは、自分をいま、ここ、に戻してくれる。
産まれ落ちてから、絶え間なく繰り返してきた、その無意識の所業は、そんなことを教えてくれる。
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さて、その上で、呼吸に対するイメージは「出すもの」と「入れるもの」をどうイメージするか、と同義なのかもしれない。
何を吸い、何を取り込み、
何を吐き、何を捨てるのか。
その内観や内省の時間に、どういうイメージを持つかというのは、非常に大切なような気がする。
よく聞くのは、吸うときに清浄な空気を吸い込み、そして吐くときに身体の中のモヤモヤした汚れを吐き出す、というイメージだ。
呼吸をするごとに、身体の中が清らかになっていく、というイメージ。
それはとても説得力がある。
けれど、最近思うのは、その逆のイメージもまた、呼吸の真実に近いのではないか、ということである。
すなわち、外界の汚れや曇った空気を取り込み、そして身体の中を通って清らかな空気に変わり、それを外界に戻す、というイメージ。
人の身体というのは、汚れが溜まるものともいえるし、その反対に、汚れたものを浄化する清らかなもの、と見ることもできる。
そのどちらのイメージも、確からしく見える。
浄と、不浄。
清と、濁。
よくよく見れば、どれも世界の一部でしかないのかもしれない。
呼吸とは、まさに循環するもの。
どちらのイメージも、真実の一つなのだろう。