さて、断酒662日目である。
昨日でこのブログも3周年を迎えたが、断酒もまた1年と10か月近くになる。
ここで書き始めてからの半分以上が、断酒している期間になるらしい。
そう思うと、断酒ブログとも言えるのかもしれない。
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お酒を飲まなくなって、たまに言われることがある。
「お酒を飲まないと、本音を語る場所がなくなって、息苦しくなりませんか?」
どうだろう。
お酒を飲むと饒舌になるのは確かだが、それが本音かと言われると、首をかしげたくなる。
あくまで、私自身は、の話だが。
世の多くの男性は、話すこと、伝えること、コミュニケーションを取ることが苦手だ。私を含めて。
背中のチャックを開けば、見栄とプライドが詰まっている男性にとって、それは当たり前のことかもしれない。
だから、お酒という潤滑油(ずいぶんと使い古された言葉だ)が要るのかもしれない。
されど、お酒があるから、本音が語れるかといえば、そうでもないようにも思う。
本音とは、誰かに語ろうが語るまいが、大して違いはないのかもしれない。
それを、本人が自覚していれば、の話で、厄介なのは自覚していない本音の方だ。
他人とコミュニケーションを取ることは、ときにその本音に気付かせてくれる。
目の前の相手は、自分自身なのだから。
相手に言いたいことは、結局、自分自身に言いたいことである。
だからこそ、誰かと話をすることは大切で、それこそコーヒー一杯で何時間もしゃべり倒せる女性と違って、男性は誰かとコミュニケーションを取る時間を意識的に持たないと、孤立を深めていってしまう。
そうした意味では、お酒というのはありがたいものかもしれない。
ただ、それがお酒でなくても、いいようには思う。
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「タラレバ」あるいは「if」は、人生においてもバクチにおいても、あまり考えても意味のないことだ。
それは、酒の肴にするくらいがちょうどいいのだが、ふと考えがよぎることがある。
もしあの時、断酒せずに、いまも飲んでいたら。
いまは、どんな私だったのだろう。
どんな、文章を書いていたのだろう。
泥酔して乗った終電で、睡魔と必死に戦っていたのだろうか。
コロナ禍で、飲み歩くことができなくなって、発狂していたのだろうか。
本音を誰かに、語っていたのだろうか。
そうかもしれないし、そうでもないかもしれない。
飲んで語れる本音というのも、どうも安っぽいような気もする。
同時に、お酒が入って上機嫌に楽しそうに未来を語る酔客が、ときに羨ましくもある。