少しサボっていたランニングに出ようと、軽く準備運動としてストレッチをした。
ランニングに出るときの、いつものルーチンだ。
頭の後ろで右手を曲げて、肘を左手で引いたときだった。
明らかに、感覚が違っていた。
以前に比べて、肩の可動域が広がったように感じた。
ぐい、と肩のあたりが、伸びる感覚。
ここのところ、ランニングはサボっていたが、ストレッチをずっと続けていた。
下半身のストレッチを中心にしていたのだが、それが肩にも波及したのだろうか。
何はともあれ、不惑を過ぎての身体のよい変化を、嬉しく感じた。
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「年齢は単なる記号」とは、叶姉妹が仰った名言である。
その通りだと思う。
けれど、その記号なりの意味もまた、あるようで。
我が身に置き換えてみると、不惑を過ぎて、いままでとは違う身体感覚がある。
断酒を続けている恩恵で、不摂生はほとんどないものの。
疲れの抜け具合であったり、「何となく」身体がすっきりしない日であったり、ずーんとした腰の重さであったり。
それが年齢によるものなのか、生活習慣によるものなのかは、分からない。
ともすれば、それは「衰え」と表現できるのかもしれないけれど。
それは、どこか、身体からの「声なき声」のようにも思える。
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そんな折、ふと目に入ったストレッチの動画を参考に、先月から身体との対話を続けている。
ここのところ、あやしい腰の痛みがたまに出ることがあったので、下半身、股関節のストレッチを中心に、20分から30分ほど。
それは、自分の身体と対話する時間ともいえる。
呼吸を止めないようにしながら、今日、いまこの瞬間の身体感覚に耳を傾ける。
もちろん、日によって、時間帯によって、身体の感じ方は違うし、「昨日はよかったのに、今日は硬いなぁ」と思うことも多々ある。
それでも、少しずつ、ほんとうに少しずつ、自分の身体が変化するのが、とても楽しい。
歳を重ねると、身体のケアに時間がかかるようになる。
スポーツ選手のお話を聞いていても、それは一つの真実だ。
けれども。
それは、手間がかかるというよりは、身体を通じてより深く自分と対話し、愛することができるようになるという「進化」なのではないだろうか。
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早熟の天才というものが存在するのと同じように、時間を味方につける鬼才というものの存在する。
伊藤若冲は、30歳で絵を学び始め、40歳でようやく本格的に絵を描きはじめた。
山本昌氏は、41歳でノーヒットノーランの偉業を達成し、50歳まで現役を続けた。
百折不撓の棋士・木村一基九段は、史上最年長の46歳で王位のタイトルを獲った。
ストラディバリウスのつくるヴァイオリンは、彼が60歳を過ぎてからが全盛期だった。
アンパンマンが初めてアニメになったとき、やなせたかし氏は70歳になる手前だった。
偉大な先達に倣うべく。
身体との対話を続けながら、その変化を楽しんでいきたい。
それは、歳を重ねること、人生を楽しむことと同義なのだろう。