大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

断酒日記【702日目】 ~寂しさという毒、そして薬。

さて、断酒して700日を超えた。

来月には丸2年になる。早いものだ。

久しぶりにお会いした知人と話していたが、「毒がなさすぎる」と笑われてしまった。

曰く、最初から手を出さない人や、病気などからやむを得ず断つ人はいるが、一度どっぷりと嵌ってから両方やめる人は珍しい、と。

言われてみれば、30代で煙草も辞め、そして酒を辞めた。

毒気が抜かれたといえば、そうなのかもしれない。

代わりに甘いものは増えたが、それはまだ辞められそうにない。

酒を辞めてから、飲み歩くことはなくなったが、馴染みのお店には伺っている。

飲まないのに新しいお店に一人で入るのは、やはり気が引けるのはもちろんあるが、どうせなら馴染みのお店でお金を使いたいという思いもある。

先日もそんなお店に伺ったところ、偶然にもそのお店で以前働いていた方がお客さんとして来ていた。

ほんの3,4年前のことだと思っていたら、もうお店を卒業してから7年以上が経っていると聞いて、時の流れの早さを思わずにはいられなかった。

7年前といえば、当然、まだお酒を飲んでいた。

寂しさを、酒で散らすように飲んでいたこともあった。

それが良いか悪いか、というよりも、そうせざるを得なかったのだろう。

そうできる場所があって、よかったとも思う。

冒頭の知人の言う「毒」とは、私にとって「寂しさ」であったのかもしれない。

では「寂しさ」がなくなったのか、と言えば、そんなこともない。

ただ、自覚できるようになった、とは言えるかもしれない。

その逆も然りだが、毒は転じれば薬になる。

寂しさ、あるいは孤独感というのは、人が生きる上で大きな意味を持つ。

それがあるゆえに、恋愛、家族、仕事、ギャンブル、あるいは酒など、いろんなものに依存することもあろう。

けれど、それは裏を返せば、寂しさがあるからこそ、人は他人とのつながりを求めることができる、とも言える。

その心に空いた穴があるからこそ、人は寂しさと向き合い、他人とつながろうとできる。

その穴とは、誰かから愛されたことがあるからこそ、感じることができる。

親かもしれないし、おじいちゃんかもしれないし、あるいは近所の誰かかもしれない。

それは、かつての記憶として思い出すこともできる、「いま」それを感じることもできる。

どんなときも。

どんなときも、どこからでも。

愛を、受け取ることはできよう。