さて、断酒して700日を超えた。
来月には丸2年になる。早いものだ。
久しぶりにお会いした知人と話していたが、「毒がなさすぎる」と笑われてしまった。
曰く、最初から手を出さない人や、病気などからやむを得ず断つ人はいるが、一度どっぷりと嵌ってから両方やめる人は珍しい、と。
言われてみれば、30代で煙草も辞め、そして酒を辞めた。
毒気が抜かれたといえば、そうなのかもしれない。
代わりに甘いものは増えたが、それはまだ辞められそうにない。
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酒を辞めてから、飲み歩くことはなくなったが、馴染みのお店には伺っている。
飲まないのに新しいお店に一人で入るのは、やはり気が引けるのはもちろんあるが、どうせなら馴染みのお店でお金を使いたいという思いもある。
先日もそんなお店に伺ったところ、偶然にもそのお店で以前働いていた方がお客さんとして来ていた。
ほんの3,4年前のことだと思っていたら、もうお店を卒業してから7年以上が経っていると聞いて、時の流れの早さを思わずにはいられなかった。
7年前といえば、当然、まだお酒を飲んでいた。
寂しさを、酒で散らすように飲んでいたこともあった。
それが良いか悪いか、というよりも、そうせざるを得なかったのだろう。
そうできる場所があって、よかったとも思う。
冒頭の知人の言う「毒」とは、私にとって「寂しさ」であったのかもしれない。
では「寂しさ」がなくなったのか、と言えば、そんなこともない。
ただ、自覚できるようになった、とは言えるかもしれない。
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その逆も然りだが、毒は転じれば薬になる。
寂しさ、あるいは孤独感というのは、人が生きる上で大きな意味を持つ。
それがあるゆえに、恋愛、家族、仕事、ギャンブル、あるいは酒など、いろんなものに依存することもあろう。
けれど、それは裏を返せば、寂しさがあるからこそ、人は他人とのつながりを求めることができる、とも言える。
その心に空いた穴があるからこそ、人は寂しさと向き合い、他人とつながろうとできる。
その穴とは、誰かから愛されたことがあるからこそ、感じることができる。
親かもしれないし、おじいちゃんかもしれないし、あるいは近所の誰かかもしれない。
それは、かつての記憶として思い出すこともできる、「いま」それを感じることもできる。
どんなときも。
どんなときも、どこからでも。
愛を、受け取ることはできよう。